歌の橋|和田合戦の裏に隠された、和歌にまつわる鎌倉時代の出来事(石碑を読む)

歌の橋|和田合戦の裏に隠された、和歌にまつわる鎌倉時代の出来事(石碑を読む)

2022-01-12

今回は金沢街道沿いにある「歌の橋」石碑を読んでみました。
歌=和歌といえば、源実朝が頭に浮かびましたが、やっぱり石碑に書かれてましたね!

歌埜橋

歌の橋

「歌の橋」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

鎌倉十橋ノ一ニシテ
建保元年(皇紀一八七三)二月澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄社頭ニ奉献セシニ
翌朝将軍實朝傳聞セラレ御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ以テ神徳ヲ謝シタリト傳ヘテ此ノ名アリ

昭和十二年三月建 鎌倉町青年團

鎌倉十橋の一つで、1213年(建保元年)2月渋川兼守が謀反の罪に寄って討伐させられようとしたときに、嘆きのあまりに和歌を10首詠んで、荏柄天神社に奉納した。
翌朝、将軍の源実朝はそれを聞き、感心し兼守の罪を許された。
そのお礼としてこの場所に橋を造り、神徳に感謝したと伝えらえ、この「歌の橋」という名前がある

昭和12年3月建 鎌倉町青年団

※間違っていたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

:現在の「野」
:シュウ、うれ|なげき悲しむ
傳聞:でんぶん|またぎぎ
報賽:ほうさい|祈願が成就したお礼に神仏に参拝すること

事前知識(歴史編)

建保元年

1213年。けんぽう。1213-1219年。順徳天皇、後鳥羽上皇源実朝(将軍)、北条義時(執権)の時代。

澁川刑部六郎兼守

「しぶかわ きょうぶ ろくろう かねもり」と呼びます。

首謀者が130人ほど居たと言われる、執権「北条義時」を討つ計画がばれて多くの謀反人が逮捕。
歌を10首も読んで嘆くなんて、ハメられたんでしょうか?

謀反人なら嘆かないですよね?今となっては真相は分からずですが・・・。

1213年 和田合戦

和田合戦は、和田一族 vs 鎌倉幕府「北条義時軍」の戦い。
和田一族は三浦一族の庶流にあたりますが、三浦宗家の三浦義村に裏切られてしまいます。

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泉親衝の乱

このきっかけになったのが、澁川兼守が謀反で捕まったとされる計画。

泉親衝(鎌倉幕府御家人、信濃源氏)が、二代将軍頼家の遺児「栄実(千寿丸)」を将軍にして、執権北条義時を討とうとしたもの。信濃源氏には木曾義仲がいますね。

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この一味に澁川兼守もいたんですけど、和田義盛(侍所別当)の息子「義直・義重」甥「胤長」も関与していて逮捕。

和田義盛の願いもむなしく、甥の「胤長」だけは主犯格だという事で許してもらえず、義盛に恥をさせたり嫌がらせ等々で、ついに義盛が切れてしまって和田合戦になったんですね。

北条義時が、上手に喧嘩を売ってくるように仕向けたということなんでしょうかね。

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