今回は、鎌倉市材木座の海の中にある「和賀江島」の石碑を読んでみました。
この石碑、いつも海の上にぽっかり浮かんでいるので、いつ読むんだよ!って思っていましたが、近づける日が年に数回(トンボロ現象)あるんですよね。
目次
和賀江島(石碑)
わかえのしま、わがえじまと、複数の呼び方があります
「和賀江島」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ此ノ地住昔筏木運湊ノ港タリシヨリヤガテ今ノ名ヲ負フニ至レルナリ
和賀江島ハ其ノ和賀ノ港口ヲ扼スル築堤ヲ言ヒ今ヲ距ル六百九十餘年ノ昔貞永元年勧進聖人往阿弥陀仏カ申請ニ任セ平盛綱之ヲ督シテ七月十五日起工八月九日竣功セルモノナリ
大正十三年三月建 鎌倉町青年團
和賀とは今の材木座の昔の地名であり、この場所は昔、木材運搬の港であり、そのことから今の名前(材木座)が付けられるに至った。
和賀江島は、和賀の港口をしっかりと守る堤防の事を言い、今より690年も昔、1232年(貞永元年)勧進聖人の往阿弥陀仏が申請し、平盛綱がこの工事を監督して、7月15日に工事開始、8月9日に工事が完了した。
大正12年3月建 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
住昔:おうせき|過ぎ去った昔、いにしえ。
筏木運湊:いかだや木材の運送
扼:ヤク、おさ|おさえる、おさえつける、つかむ
事前知識(歴史編)
貞永元年
1232年。じょうえい。1232-1233年。
御堀河天皇、四条天皇。藤原頼経(将軍)、北条泰時(執権)の時代
往阿弥陀仏
勧進聖(諸方を勧進して歩く遊行の僧)。和賀江島を築く許可を鎌倉幕府に願い出る。
平盛綱
生誕死没不明。鎌倉幕府、執権北条氏の家司(家政を掌る役職)。内管領長崎氏の祖。
1221年承久の乱で活躍し、1250年にはすでに死亡している。吾妻鏡より。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平盛綱役を「きづき」さんが演じられましたね。
和賀江島(国指定史跡)
日本最後の築港遺跡。案内板が材木座海岸の上側に設置されています。
石碑については、大潮の干潮のタイミングで全貌を現します。特に春シーズンが良いです。
※気象庁の潮位表HPで確認できます。
極楽寺
忍性が極楽寺の長老になってから、和賀江島の敷地の所有、維持管理の権利、関米(今で言う通行料)を徴収する権利があった。
吾妻鏡
吾妻鏡で「和賀江島(和賀江津・和賀江)」に関する内容を探してみましたが、10日分くらいしかありませんでした。。。しかもあっさりとした内容。
自然現象についての記載
貞永元(1232)年 7月12日
今日、勧進聖人の往阿弥陀仏の申請により、船舶の着岸に支障が無いよう和賀江島を築くという。
北条泰時は、とても喜び協力し、他の人々も手伝った。
同年 8月9日
晴れ。和賀江島が完成した。北条泰時の使者として、尾藤景綱、平盛綱、諏訪盛重が巡検した。
築港についての記載
建長4(1252)年 正月27日
未の刻(14:00頃)に由比浦から和賀江島に至るまで、海浜の波の色が紅のようになった。
同年 2月28日
晴れ。申の刻(16:00頃)に腰越の会場から和賀江津にかけて海水が血の様だった。
赤潮なんでしょうか?でも冬場には赤潮ってあまり見られないような・・・
Youtubeで和賀江島へ上陸
大潮干潮で潮位が12cmになったタイミングで狙って、和賀江島へ上陸した時の動画です。
途中には潮位の調べ方も載せていますので、ご覧ください。