今回は玉縄首塚の石碑を読んでみることにしました。
今までの鎌倉町青年団の石碑と違って、こちらは玉縄史跡顕彰会という団体が昭和42年建立した石碑で、他の昔からある石碑とは違って最近で、石碑の文字も読みやすいですよ。
目次
玉縄首塚(たまなわくびづか)
「玉縄首塚」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
玉縄首塚由来
今を距る四百四十餘歳 大永六年(一五二六)十一月十二日南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)豪士大船甘糟 渡内の福原両氏と倶に里見の軍勢を此處戸部川畔に〇撃し合戰數合之を潰走せしめ鎌府を兵〇より護る この合戦に於て甘糟氏以下三十有五人は戰禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その数を知らず 千〇枚て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関死守の霊を慰の怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称
昭和四十二年八月 玉縄史跡顕彰會建立
玉縄首塚由来
今から440年ほど昔、大永6(1526)年11月12日、南総の武将「里見義弘(正しくは里見実堯)」が鎌倉を攻略しようと鶴岡八幡宮に火を放った。
乱入してくるのを知った玉縄城主北条氏時(北条早雲の孫)は、豪士の大船甘糟氏と渡内福原氏とともにsと見の軍勢をココ戸部川沿いで合戦し、里見軍を敗走させ、鎌倉を守った。
この合戦では、甘糟氏以下35人が討死し、福原氏も傷を負い、里見軍に至っては死者数は数え切れないほどだった。
戦いの後、北条氏時は味方の首と敵の首を交換し、ココに埋めて首塚を築き、この戦いで亡くなった霊を敵味方関係なく供養し、玉縄首塚と呼んだ。
昭和42年8月 玉縄史跡顕彰会建立
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
距る:へだたる:間が大きくあく事
事前知識(歴史編)
里見実堯
石碑には里見義弘と書かれていますが、鎌倉攻めをした1526年には彼は生まれていないので間違っていて、正確には「里見実堯(さとみ さねたか)」です。
安房里見氏の一族で、2代里見成義の次男。
里見実堯(1484~1533)
里見義弘(1530~1578)
戸部川(現 柏尾川)
戸部川は今の柏尾川のこと。
柏尾川の玉縄首塚前に架かっている橋は「戸部橋」という名前で、戸部川の名残が残っています。
大船甘糟氏
大船で力を持っていた土豪が甘糟氏。相模平氏の出身で玉縄城主北条氏の家臣となりました。
鎌倉市大船には、甘糟氏が勧請した「熊野神社」や、山ノ内から移した「多聞院(前身は観蓮寺)」が残っています。
また甘糟氏の末裔が所有してると思われる長屋門も残っています。
渡内福原氏
今は藤沢市の渡内も昔は鎌倉郡渡内村で、福原家は元々三浦一族(佐原八郎為連が祖)だったそうです。
為連の子が母方の福原姓を名乗ったとか。
上杉禅秀の乱のときに三浦から渡内村に移住、その後は北条氏、徳川氏に仕えて名主になりました。
南総里見八犬伝
江戸時代に曲亭馬琴が書いて長編読本「南総里見八犬伝」
戦国時代の安房里見氏をベースにした空想物語。
鎌倉へ攻めてきたのは里見実堯より前の前期安房里見氏の話ですが、この一族の末裔であることは変わりありません。