今回は鎌倉市の西御門にある法華堂跡の石碑を読んでみることにします。
源頼朝ゆかりの地ですけど、頼朝に仕えてきた御家人にとってはある意味「聖地」でもあるわけで、鎌倉幕府の内乱とか、いろんな歴史を見てきたところなのかもしれません。
目次
法華堂跡(ほっけどう あと)
「法華堂跡」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ甍後其ノ廟所トナル
建保五年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ満庭朱殷ニ染メシ處トス
大正十三年三月建 鎌倉町青年團
法華堂は、もともと源頼朝の持仏を祀るところで、死去後は廟所となった。
1217年(建保5年)5月、和田義盛が謀反を起こして火を幕府に放った時、将軍の実朝が難を逃れた場所はここ。
1247年(宝治元年)6月5日三浦泰村がここに籠って、北条軍を迎え撃ったが刀は折れて矢は尽きてしまい、一族、家臣等500人余りが一緒に自害し、庭全体が朱殷色に染まった場所である。
大正13年3月建 鎌倉町青年団
石碑に書かれている建保5年ではなく、建暦3年の間違いだと思われます!
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
叛:ハン、そむく|反逆する
處:現在の「所」
邀:むかえる|待ち受ける、呼び寄せる
寶:現在の「宝」
盡:現在の「尽」
餘:現在の「余」
偕:カイ|ともに、ともども
朱殷:しゅあん|血のような位朱色、凄惨な様子を表現する色
この石碑は、旧字体オールスターズといった感じですね。
事前知識(歴史編)
建保
1213年~1219年。けんぽう。
宝治
1247年~1249年。ほうじ。
和田義盛(わだ よしもり)
1147-1213年。和田義盛は、初代侍所別当。三浦義明の孫で杉本義宗の子。
1213年、和田合戦で北条義時に敗北。
その後、義時は政所別当に加えて、侍所別当も兼任し、執権となりました。
三浦泰村(みうら やすむら)
不詳-1247年。みうらやすむら。鎌倉幕府の有力御家人。三浦義村の嫡男。
1247年、宝治合戦で北条時頼&安達一族と戦い敗死。三浦氏の嫡流が滅亡する。
源頼朝の墓(法華堂跡)より北西側の高台にある、北条義時の墓(法華堂跡)の側には、三浦一族のやぐらが、ぽっかりと口を開けています。
三浦一族と鎌倉
三浦一族については、それだけで深いテーマになるので、ここで詳しく書くことは避けますが、名前が「三浦」なので、三浦半島を拠点とし、当然、三浦から近い鎌倉にも拠点があったと思います。
杉本
和田義盛の父は「杉本義宗」。
名字が杉本なので、鎌倉市にある苔の階段で有名な「杉本寺」付近を本拠としていました。杉本寺の裏側は、杉本城跡とも言われています。
三浦一族の中でも、杉本家は三浦氏の領土を広げる先陣担当だったのかもしれません。
亀ヶ谷
吾妻鏡には、
治承4(1180)年10月7日条
頼朝が父義朝の屋敷跡(寿福寺付近)に御所を造ろうと思案したが、土地は広くなく、岡崎義実がすでに義朝の菩提を弔う堂を建てていた。
この「岡崎義実」は、三浦義明の弟なので、三浦一族の人物。
名前が地名じゃなくて岡崎なので分かりにくいですが、平塚や伊勢原にある地名です。
岡崎義実は、三浦半島から平塚周辺の豪族と婚姻関係を結び住み着いたようですね。
有名な御家人に「畠山氏」とか「千葉氏」とかいますけど、鎌倉からは遠い場所が所領になっています。
しかし、鎌倉に近い三浦一族は調べていくと、場所的に、鎌倉の事がより深く分かるんじゃないかと思います。
これからも三浦一族に注目していきたいと思います。