今回は千葉氏ゆかりのお寺、大日寺を深堀していきたいと思います。
目次
大日寺年表
年代 | 出来事 | 人物等 |
---|---|---|
1254年(建長6年) | 松戸の馬橋に創建(開山:忍性) | 千葉頼胤 |
1284年(弘安7年) | 千葉に移される(大日寺跡) | 千葉胤宗or貞胤 |
1455年(康正元年) | 石造五輪塔が作られる | 千葉宗家滅亡 |
1945年(昭和20年) | 稲毛区轟町に移転(現大日寺) | 千葉空襲による戦災 |
阿毘廬山 大日寺(真言宗 豊山派)
大日寺は、真言宗豊山派の名刹で、千葉頼胤が源氏三代(頼朝・頼家・実朝)の霊を供養するために、建長6年(1254)松戸の馬橋に創建したものを、弘安7年(1284)頼胤の子胤宗によって、千葉氏の菩提寺として千葉に移されたと伝えられています。
昭和20年の戦災で全山焼失にあり、千葉神社の南側から現在の地に移りました。
境内には、16基の五輪塔が整然と並んでいます。これらの五輪塔は、千葉常兼から胤将に至る千葉氏16代の墓碑と伝えられ、銘文は判読できませんが鎌倉時代から室町時代にかけての代表的なものです。
大日寺の場所
千葉都市モノレール「作草部(さくさべ)駅」から歩いて10分ほどです。
大日寺跡
ここはかつて「千葉家累代の墓塔」と伝えられる五輪塔群を有する阿毘盧山密乗院大日寺があった場所です。千葉市の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現千葉神社)と大日寺が軒を連ねたこの付近は、中世の千葉のまちの中心であり、聖なる空間として意識されていたことがうかがえます。(省略)
称名寺(横浜市金沢区)に残る聖教には「下州千葉之庄大日堂」などと記録があり、大日寺の前身とも考えられます。大日堂では称名寺長老の剣阿が聖教を写経するなど、関東における真言律宗の中心的な寺院であった称名寺との深い結びつきがありました。
また「鎌倉大草紙」には、大日寺は千葉頼胤(宗家8代)が鎌倉極楽寺の忍性を開山として小金の馬橋(松戸市)へ建立した千葉氏の代々の冥福を祈った寺で、孫貞胤(宗家11代)の時に千葉へ移った事、康正元年(1455)千葉胤直(宗家15代)たちが多古城・島城で滅んだ際、胤直らの遺骨が大日寺へ送られ、石造五輪塔が建てられたことが記されている
大日寺跡の場所
昭和20年の戦災で全山焼失に会うまでは、千葉神社の南側にありました。
現在は公園となっていて、千葉常胤像も設置されています。
大日寺関連用語
千葉氏宗家系図(16代)
常兼-常重-常胤-胤正-成胤-胤綱-時胤-頼胤-宗胤-胤宗-貞胤-氏胤-満胤-兼胤-胤直-胤将
上記16代の五輪塔だと思われます。
千葉氏中興の祖「千葉常胤」は千葉氏宗家3代目なんですね。
また、「千葉郡誌」によれば、「平常兼から千葉胤直まで」と書いてあり、史料によって異なるようなので、正しさを求めるのは辞めにしましょう・・・。
千葉頼胤(ちばよりたね)
1239-1275。千葉氏の第8代当主。
宝治合戦(1247年)で幼少の頼胤は責任を問われなかったが、一族の多くが処分された。
鎌倉幕府5代執権「北条時頼」の偏諱を受けて名乗ったとされる。
真言宗豊山派
豊臣秀吉公によって奈良の長谷寺に招かれた専誉僧正が豊山派をおこす。
豊山派の派名は長谷寺の山号「豊山」に由来。正式名称は豊山神楽院長谷寺。
ちなみに、鎌倉市に真言宗豊山派の寺院はありません。
鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)
室町幕府の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。
1380-1479年の約100年の歴史を記し、太平記を継承する意味で「太平後記」の別称がある。
多古城
千葉県香取郡多古町にあった日本の城。
享徳の乱(1455年)では、千葉本宗家「千葉胤直」ら一族が千葉城を追われ、多古城に逃れた。
多古城には千葉胤直の子「胤宣(胤将弟)」が立てこもったが、原氏・馬加氏(千葉一族)の連合軍が追い、籠城の兵は日に日に困窮し、胤宣は降伏し切腹した。
鎌倉・古河公方派:馬加康胤や原胤房 vs 関東管領 上杉派:千葉介胤直(宗家)
千葉常胤(千葉一族)ゆかりの地
来迎寺
来迎寺|千葉氏胤ゆかりの五輪塔