鎌倉市大船にある常楽寺。建長寺を開山する前に蘭渓道隆が滞在していたという臨済宗建長寺派のお寺なのですが、その裏にある粟船山に木曽義仲の嫡男「清水冠者義高(木曽義高)」の墓(塚)が有ります。
墓の側には石碑もありまして、今回はそれを読んでみることにします。
目次
木曽冠者義高の墓(木曽塚)
「木曽冠者義高の墓」石碑の場所
常楽寺の奥に見えるのが、木曽義高の墓がある粟船山(ちいさい丘みたいな)。
常楽寺の山門を左側に回り込み、住宅の横を抜けていくと、山頂へ向かう階段が出てきます。
歩いても2、3分もしないです。
石碑に書かれている文字は?
義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲甞テ頼朝の怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル
爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラルル
塚ハ元此地ノ西南約二町木曽免トイフ田間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻ヲ傳ヘテ数奇ノ運命ニ弄ハレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ〇ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
大正十五年1月
鎌倉同人会 建
(木曽)義高は(木曽)義仲の長男である。義仲は、昔、頼朝の恨まれて兵を出されて、まさに戦になろうとしたが、義高を人質として鎌倉に差し出し、しばらくの間和議が結ばれた。
それ以来、頼朝が養父となりその娘(大姫)を妻(許嫁)としたが、後に義仲が粟津の戦いにて誅殺されると、鎌倉を逃れるも入間河原にて捕らえられて斬られた。
塚(墓)は、元々この場所の西南約2町(約218m)にある木曽免という田にあったのを、延宝年間(1673-1681)中に此処に移されたという。
旭将軍(木曽義仲)が、痛烈で豪快な短い生涯の余韻を伝え、それに巻き込まれた波乱に満ちた運命に翻弄され短い人生だった彼の首は、この場所で永遠に眠っている。
大正十五年1月
鎌倉同人会 建
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
甞テ:かつて|以前
爾来:じらい|それから後
事前知識(歴史編)
延宝年間
江戸時代初期、1673-1681。寛文の後、天和の前。
江戸幕府の将軍が、徳川家綱・徳川綱吉の時代。
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伝大姫の墓
また、木曽義高の墓に行く途中に、大姫の墓と伝わる小さな祠のようなモノが置いてあります。
どちらかと言うと、常楽寺開基の北条泰時の娘「姫宮」の墓(塚)の説が有力そうですけど、今となっては正解はだれにも分かりませんので・・・。