今回は住宅地の中に申し訳なさそうに設置してある石碑「土佐坊昌俊」を読んでみました。
この石碑を読むまで、この人知りませんでした。。。
鎌倉検定の公式テキストブックにも書いていません。
でも、こんなマイナーな人を知れるのも石碑探索のおかげですね。ありがたい。
目次
土佐坊昌俊(とさのぼう そうしゅん)
1141-1185年。僧、武将。
大和国で代官を夜討ちにして、京都で大番役を務めていた「土肥実平」に預けられ、共に関東に下向。後に、頼朝に臣従する。
土佐坊昌俊を題材にした短編歴史小説が、永井路子さんの「寂光院残照」の中に書かれています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、村上和成さんが演じられます。
渋谷金王丸常光
土佐坊昌俊には渋谷金王丸常光と同一人物ではないか?という説があります。
ただ、金王丸の実在を証明する史料は存在しないらしいのですが、金王丸を祀っている「金王八幡宮(渋谷区)」の説明板には、金王丸=土佐坊昌俊と書かれています。
そうなると、大和国の代官夜討ち以前の土佐坊昌俊の動向が分かってきますね。
平治物語では、源義朝の死を愛妾だった「常盤御前」に伝えた郎党が金王丸だったと書かれているそうです。そして、渋谷と名乗っているので、秩父一族の庶流だった渋谷氏。渋谷重国の兄弟と考えることもできるのです。
源義朝が最期を遂げた知多半島の野間では、渋谷金王丸ゆかりの史跡が残っています。
土佐坊昌俊(渋谷金王丸)周辺の系図
秩父武綱 → 前九年の役・後三年の役
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秩父重綱 小机基家(河崎冠者)→ 金王八幡宮創建
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秩父重弘 河崎重家
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畠山重能 渋谷重国(?) 渋谷金王丸常光(土佐坊昌俊)
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畠山重忠
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
※系図には諸説あります。
金王八幡宮
渋谷区にある金王八幡宮。境内には金王丸を祀る金王丸影堂があります。
創建は1092年、金王丸と渋谷重国の祖父「河崎冠者基家」と伝わります。
土佐坊昌俊邸址(石碑)
鎌倉内には土佐坊昌俊が住んでいたとされる場所に石碑が建っています。
「土佐坊昌俊邸址」石碑の場所は?
石碑に書かれている文字は?
堀河館ニ義経ヲ夜襲シ利アラズシテ死セン者是土佐坊昌俊ナリ
東鑑文治元年十月ノ條ニ此ノ追討ノ事人々多ク以テ辭退ノ氣アルノ處昌俊進ンデ領状申スノ間殊ニ御感ヲ蒙ル已ニ進發ノ期ニ及ンデ御前ニ参リ老母竝ニ嬰兒等下野ノ國ニ有リ隣愍ヲ加ヘシメ給フベキノ由之ヲ申ス云々トアリ其ノ一度去ツテ又還ラザル悲壮ノ覚悟ヲ以テ門出ナシケン
此ノ壮士ガ邸ハ即チ此ノ地ニ在リタルナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團
京都にある堀河の館にいる源義経を夜襲したが、失敗して亡くなった人物は土佐坊昌俊である。
吾妻鏡には1185年(文治元年)10月の条に、義経追討の件、多くの人が辞退したが、昌俊は進んでこの責務を受けると言ったので、頼朝の関心を得た。
義経討伐の出発の時、頼朝に会いに行き「老母並びに幼い子供らを下野の国に置いて行くので、配慮頂けるようにと伝えて事が書いてある。
一度戦いに出たら戻れないという悲壮な覚悟を持って出発した。
この勇ましい武士の邸がこの場所にあった。
事前知識(漢字・用語編)
辭退:現在の「辞退」
發:はつ|出発すること
竝:なみ|平均的、同類、共通する、並んでいる
嬰兒:みどりご|生まれたばかりの子供
愍:ビン|かわいそうに思う
壮士:そうし|勇ましくて元気のいい男
事前知識(歴史編)
文治元年
1185年。ぶんじ。1185-1190年。後鳥羽天皇の時代。
堀河の館(京都)
六条堀川付近には、長く源氏の邸宅があったところとして著名です。
源頼義、義家、さらには源義経が居を構えました。
今は、その史跡すらありませんが、邸宅内にあったと言われる井戸(左女牛井之跡|さめがいのあと)の後に石標が建っています。
近くには「若宮八幡宮」という源頼義が創建した、神社の旧鎮座地があって、そこの説明板が詳しいです。
小町大路にある「土佐坊昌俊邸跡」の石碑に書いてある、義経を討つために向かった京都の堀河館。
— kagolabo@鎌倉 (@KagolaboJp) October 30, 2020
今はその土地にあったとされる井戸の跡碑が。館じゃなくてなぜ井戸よ😅#京都 #鎌倉 #堀河館 pic.twitter.com/JFlCGxLBzZ
その後(吾妻鏡より)
義経追討を進んで引き受ける
土佐坊昌俊は、義経追討に京へ行くとき、義経の強さを知っていたのでしょう。
死をも覚悟していたようです。
源義朝(頼朝の父)は昔、下野守に任じられていました。
土佐坊昌俊と渋谷金王丸が同一人物だとすると、下野国に家族が居ることは合点がいきますね。
文治元(1185)年 10月9日
源義経を誅殺する事について評議があり、土佐坊昌俊を遣わすことになった。
多くの御家人が辞退したい様子の中、土佐坊昌俊が進んで引き受けたため、頼朝から大いに褒められた。
出発の直前、土佐坊昌俊は源頼朝の御前に行き、
「私の老いた母、小さい子供らが下野国にいます。特に目をかけてやってください。」と。
頼朝は真摯に話を聞いて、下野国の中泉荘(栃木県中央、小山市、藤岡町などの一部)を与えられた。そして、昌俊は弟や側近ら83騎の軍勢を引き連れて京へ向かった。
土佐坊昌俊の義経追討は失敗に終わる
頼朝と仲たがいした義経は京で後白河法皇に仕えながら、叔父の源行家と組み頼朝追討をもくろみます。
一条能保は妻が頼朝の姉で頼朝派のため、行家に襲われました。
文治元(1185)年 10月22日
一条能保の家人らが京都からやってきて言うには
「先日16日、源行家が一条能保の家人らを襲い、また噂では17日、土佐坊昌俊の追討はうまくいかず、行家と義経らは、頼朝追討の宣旨を得たらしい」と。
義経追討に失敗した土佐坊軍は、運悪く義経が幼い頃を過ごした鞍馬山に逃げ込んでしまったのでしょうか。逃げ切れることなく捕まってしまいます。
同年 10月26日
土佐坊昌俊とそれに味方した三人を、義経の郎党らが鞍馬山の山中から探し出して捕らえ、六条河原で梟首したという。
土佐坊の老母が頼朝を訪ねる
土佐坊昌俊の死亡から5年後、突如、下野国から老母がやってきます。
吾妻鏡では理由が書かれていないので、推測するしかありません。生い先短いと思ったのか。。。
建久2(1191)12月15日
故土佐坊昌俊の老母が、下野国山田庄よりやってきた。
頼朝は、老母を御前に召したところ、息子のことを話し涙を流した。頼朝も憐れに思い綿衣二領を渡した。
義経の討手を送ろうとしたとき、ほとんどの武士が嫌がるなか、僧侶の身なのに申し出て命を捧げたので、今でも、精兵を比較する基準となっていると。