鎌倉ゆかりの映画俳優|小津安二郎作品と、田中絹代、原節子、笠智衆など

鎌倉ゆかりの映画俳優|小津安二郎作品と、田中絹代、原節子、笠智衆など

2022-05-02

今回は、鎌倉にゆかりのある映画俳優や映画人について調べてみることにしました。

日本映画の歴史

日本で初めて映画が上映されたのが1896年(明治49)年、当時はサイレント映画でした。

今もある「松竹」は、蒲田の地で1920年(大正9年)からスタート。
戦争が始まって、蒲田撮影所の周辺が軍需工場次々と変わり騒音が激しくなり移転を検討し、まだ田舎だった大船へ。

松竹大船撮影所は1935年~2000年(昭和10年~平成12年)まで続きました。

時代背景はざっとこんなところでしょうか。

旧松竹大船撮影所(現鎌倉女子大学)

映画俳優編(生年月日順)

鎌倉検定本「鎌倉と映画」の箇所に記載されている、鎌倉ゆかりの俳優は4人です。生年月日からも松竹大船撮影所があった時期と重なります。

映画監督 小津安二郎

そして、下記四人の俳優を結びつけるのが北鎌倉に住んだ小津安二郎監督。
父役、娘役、青年役、恋人だったのではないかとの噂など。深掘りすると面白いです。

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笠智衆(1904-1993)

小津安二郎監督に見いだされ、小津安二郎作品には欠かせない人(戦後の小津作品には前作出演)となりました。年齢からも他の俳優陣と比べて年上で、日本の父親像を演じてきた一人です。

晩秋」では、原節子の父親役、
宗方姉妹」では、田中絹代の父親役、
秋刀魚の味」では、岩下志麻の父親役、

を演じています。
田中絹代さんと原節子さんと親子共演しているので、お互い良く知っている仲だったんでしょうね。

墓地は小袋谷成福寺。

田中絹代(1909-1977)

松竹に入社、1965(昭和40)年に鎌倉山に新居を構える。
当時大船に会った松竹撮影所まで、大船-江の島間の日本初有料道路を利用して通っていたと思われます。

晩年の作品、1974年(昭和49年)に「サンダカン八番娼館 望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞。

川端康成(1899-1972)の「伊豆の踊子(かなり昔のサイレント映画)」にも出演しています。
上記の笠智衆との親子役もあります。

お墓は、円覚寺松嶺院です。

松嶺院は入れる時期(主に春・秋)と入れない時期があります。境内は散策ルートが決まっていて、散策ルートの途中に田中絹代さんの墓があります。

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原節子(1920-2015)

小津安二郎作品には欠かせない、日本映画を代表する女優。生涯独身を貫く。

原節子が16才頃の時、田中絹代と共演する流れがあったが、所属の関係から流れてしまう。
※初の日独合作映画「新しき土」(結局、原節子のみのキャスティング|下記の川喜多長政が制作)

1963年(当時43才)、小津安二郎監督が亡くなりお通夜に出たのを最後に、女優業を引退して、1964年に鎌倉に引っ越し。余生を鎌倉で過ごした。

また、1993年に笠智衆のお通夜前には、極秘に訪れたようです。

佐田啓二(1926-1964)

本名「中井寛一」。俳優「中井貴一」の実父。

1946年(昭和21年)松竹大船撮影所に入社。
翌年、「不死鳥」で、田中絹代の相手役に抜擢されて、田中とのラブシーンが話題となります。

小津安二郎監督からは、戦後日本の青年像として「秋刀魚の味」などに出演、佐田は小津を父のように慕っていて、1963年の小津の葬式では号泣。

その翌年の夏、家族で蓼科高原に遊びに行き、撮影の為、家族を置いて帰京する途中に交通事故に遭い死亡。中井貴一はその時3歳でした。

墓所は円覚寺松嶺院。本名の中井家になっています。
丁度、田中絹代さんの墓所の反対側にあたります。

鎌倉市川喜多映画記念館(雪の下)

2010年 川喜多長政・かしこ夫妻が住んだ邸宅に開館(公式HP
※館内は写真撮影禁止です!

川喜多長政(1903-1981)

川喜多かしこ(1908-1993)

川喜多長政が、25才頃に設立した貿易会社「東和商事(現東宝東和)」に”かしこ”が入社。
最初の仕事が、溝口健二の作品の英訳。
※溝口健二は1936年に日本映画監督協会を結成し、小津安二郎と親交を結ぶようになりました。

後に結婚。
新婚旅行でヨーロッパに行ったときに買い付けた映画がヒットし、次々と名作を日本に輸入するようになる。

1973年に川喜多長政の会社「東和商事」の映画部が制作会社・配給として、日本とドイツ初の合作映画「新しき土」を制作、原節子が出演しました。

現在の東宝東和(株)の本社は、東京にある川喜多メモリアルビル。米ユニバーサル作品の配給受託が中心で、ジュラシックパークやミニオンズなど。

また川喜多夫妻の長女「和子」は鎌倉市御成小学校に入学し、映画の勉強や仕事に打ち込み、伊丹十三と結婚。(後に離婚)

長政・かしこ夫妻、子の和子の墓は英勝寺の裏山墓地にある。

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