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波多野義通(はたのよしみち)
1107-1167。
相模波多野氏の5代目。摂関家領の相模国荘を所領としていた。筑後守。
保元の乱で負けた、義朝の父為朝やその子供たちの「首を刎ねる」役を言いつかる。
波多野義常の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
嘉承2(1107)年 | 0 | 誕生 |
源義朝に仕え、妹が義朝の側室になり次男「朝長」を設ける | ||
保元元(1156)年 | 50 | 保元の乱 源義朝(後白河天皇側)に従い勝利 |
保元3(1158)年 | 52 | 朝長、頼朝の嫡流問題で、義朝と不和になり所領の波多野郷へ |
平治元(1159)年 | 53 | 平治の乱 源義朝に従い敗北 |
嘉応元(1167)年 | 死去 |
源朝長の屋敷は、波多野の所領松田郷内にあり、壮大な広さの館だったようです。
そんな義朝次男の「朝長」ですが、3男の「頼朝」に官位を抜かされ嫡流も頼朝に移ったため、源朝長を嫡流にしたい波多野義通と源義朝との間で不和が起ったと考えられています。
波多野義通 周辺の系図
波多野遠義
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波多野義通 波多野義景 源義朝側室
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波多野義常 波多野忠綱 波多野盛通 源朝長(義朝次男)
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波多野有常 波多野義重
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
波多野頼通の子は別々の運命をたどっています。
子・波多野義常(右馬允)
生誕不詳-1180
治承4年7月10日 頼朝が遣わした使者「安達盛長」に対して、呼びかけに応じず、悪口を言い頼朝と敵対、頼朝が勢力を拡大すると、後に自害した。
弟・波多野義景(波多野五郎)
生没年不詳
義常が自害したのちに家督を継ぐ。頼朝と敵対することなく、鎌倉幕府の御家人となった。
しかし、子の盛通が和田義盛の乱(和田合戦)で和田方に付き滅亡。実権が義常の弟「忠綱」に移った。
忠綱は、将軍実朝の菩提のために金剛寺を開創。
孫・波多野義重(五郎出雲守)
生誕不詳-1258
和田合戦後に家督を継いだ波多野忠綱の子。
六波羅探題の役目で、曹洞宗の道元と親交があり、深く帰依して永平寺の建立に貢献した
波多野氏ゆかりの地
神奈川県秦野市
今でこそ、どちらかと言うと田舎の秦野市ですが、昔は京へ行くには箱根路ではなく足柄峠を越える道が主流だったため交通の要衝であり、「秦」は渡来人の技術者集団「秦氏」が関係したと思われます。
波多野城址
▶ 神奈川県秦野市寺山47|駐車場:無し|
波多野遠義から、義通、義景に伝えられた「波多野本庄北方(岡崎義実と所領の所有権を巡って抗争)」の正確な位置は分からないが、寺山(ココの住所)に伝わる波多野城址は、波多野義景の居館跡と考えられているそうです。




金剛寺(秦野市)
▶ 神奈川県秦野市東田原1116|駐車場:有り| 最寄りバス停:中庭(秦野駅より) 徒歩5分
神奈川県秦野市東田原にある金剛寺は臨済宗建長寺派のお寺で大聖山金剛寺。建長2(1250)年に波多野忠綱が実朝の33回忌のため金剛寺を再興した。
臨済宗建長寺派の寺院で、境内に奥山半蔵坊大権現が祀られている。
本堂に、実朝像が安置され、本尊の阿弥陀如来は実朝の念持仏と言われています。寺紋はササリンドウ。


大本山 永平寺
永平寺は福井県にある曹洞宗大本山のお寺。
道元が43歳の時、俗弟子だった波多野義重公の招きにより越前で大仏寺、後の永平寺を開きました。

