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岡崎(四郎)義実(おかざき よしざね)
1112-1200。相模国大住郡岡崎(現在、平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領して、岡崎と名乗った。
源義朝の為に、鎌倉(現寿福寺)に菩提を弔う祠を建てるなど、源氏への忠誠心が大きい人物ですね。
三浦義明の弟で、子に佐奈田与一がいる「岡崎義実」
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) August 31, 2021
平塚市の岡崎公民館に銅像立ってますよ😊
居館だった岡崎城は三浦同寸の時代まで続いて、あの北条早雲も手こずった要害だって🤔#平塚市 #伊勢原市 #史跡 pic.twitter.com/dmoWFPRuIk
岡崎義実の簡易年表
時期 | 年令 | 出来事 |
---|---|---|
天永3(1112)年 | 0 | 誕生 |
治承4(1180)年 | 69 | 頼朝挙兵に親子で参じる 石橋山合戦で嫡男「佐奈田与一義忠」が討死する |
息子を討った「長尾定景」を預かる 後に、頼朝に赦免を求め、三浦氏郎党として活躍する | ||
治承5(1181)年 | 70 | 水干の件で、上総広常と喧嘩騒動を起こす。佐原義連が仲裁。 |
文治4(1188)年 | 77 | 所領を巡って波多野義景と訴訟になり、敗訴する。 |
文治5(1189)年 | 78 | 奥州合戦に従軍。 |
建久4(1193)年 | 82 | 老衰を理由に、大庭景義と共に出家する |
建久10(1199)年 | 88 | 梶原景時の変で、景時弾劾連判状に名を連ねた |
正治2(1200)年 | 89 | 由比ヶ浜の自宅にて死去 |
吾妻鏡より・・・
頼朝の水干を巡って上総広常と喧嘩
養和元(1181)年6月19日
三浦一族主催の催しで、頼朝の水干をねだり頂いた義実に、上総広常が嫉妬し罵詈荘厳。
大げんか寸前のところを、三浦義連に止められる。
詳しくは佐原(三浦)義連のページをご覧ください。
頼朝との親しき間柄
頼朝が由比に行った後、度々義実宅へ立ち寄っています。義実の館が由比の近くにあったのでしょう。
佐奈田義忠の件もあるのでしょうが、お互いとても目にかけている様子が分かります。
文治2年(1186) 9月7日
頼朝が由比や深沢(当時は長谷周辺)を見物。岡崎義実が食事を献上した。
文治3年(1187) 7月23日
頼朝が海岸を散策。由比浦で小笠懸があった後、岡崎義実宅に入って酒宴を開いた。
文治3年(1187) 10月2日
頼朝が由比浦に出かけ牛追物があった。
帰りのついでに岡崎義実宅に立ち寄り、お酒を献じ、(佐奈田)義忠の小児と対面した。
岡崎義実の厳しい晩年
吾妻鏡には、石橋山合戦から頼朝を助け続けた御家人とは思えないほどの、岡崎義実の厳しい生活の実態が記載されています。
正治2(1200)年 3月14日
とても寒い日、岡崎四郎義実入道が杖を突いて、北条政子の館へ。
「もう自分は病も愁いもあり余命も近い80才、今はとても貧しく、恩地も息子「佐奈田義忠」の菩提を弔うために仏寺を寄進したら、残されている場所は針が建つ程度。これでは子孫の安堵の計らいにはなりません。」
と泣いて伝えた。
北条政子も、石橋山合戦の時の大功を思い出され、頼家に一所を充てるように伝えた。
同年 5月21日
岡崎四郎平義実法師が死去した。享年89才。三浦義継の四男。
岡崎義実周辺の系図
岡崎氏は三浦一族の庶流に当たります。
また、婚姻関係で土肥、中村氏など相模西部の一族とも関係を強化していることが分かります。
三浦一族と中村・土肥の武士団との媒介約となったのが岡崎義実です。
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三浦義継
├---------------┐
三浦義明(兄) 岡崎義実(弟)====土肥実平姉妹
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三浦義澄 佐原義連 佐奈田義忠 土屋義清
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三浦義村
相模国大住郡岡崎
左図が平塚市岡崎、右図が伊勢原市岡崎。互いに隣接している場所です。
岡崎氏ゆかりの地
前期_岡崎城址(岡崎神社)
平塚市岡崎にある高台に鎮座する岡崎神社。
ここは、前期(平安時代末~鎌倉時代)の岡崎城と言われています。つまり岡崎義実の居城跡と思われます。
下記に、後期岡崎城址も出てきますが、岡崎城址の説明板がコチラには設置されておらず、後期岡崎城址の無量寺に設置されています。


岡崎四郎義実像(岡崎公民館)
岡崎神社の下には、平塚市立岡崎公民館があり、その建物の入口前に岡崎四郎義実公の像が設置されています。
説明板もあり、岡崎郷を開発しここを名字として岡崎氏を名乗ったこと、鎌倉幕府では特に要職に就くことも無かったこと、などが書いてあります。
要職につかなかったのは高齢だったからでしょうか?
そのせい?か、晩年の生活はなかなか厳しいかったようですね。


後期_岡崎城址(無量寺)
説明板によると伊勢原市岡崎にある無量寺は後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城址とされています。
無量寺は高台にあり、最寄りのバス停「岡崎城址入口」から、厳しい上り坂が続きます。
館は周辺を見渡せた方が良いので、こういう立地なのは納得がいきますが、歩きは大変です。。。


岡崎四郎義実公の墓
無量寺から歩いて500mほどの場所(伊勢原ゴルフセンターの横付近)に義実公の墓があります。
ただ、無量寺から行く場合は山道のような場所を350mほど歩かなければいけません、それほど人も歩いていない様で、夏場は蜘蛛の巣とか蚊とかで行くのは大変だと想像できます。
または、近くの住宅街の方からサクッっと行く道もあります。こちらは50mくらい。
ただし車の場合は道路が細いので注意が必要です。(でも、こちらから行くのをお勧めします)


お墓は林の中にヒッソリと建っています。
説明板には、青年時代は悪四郎と呼ばれて三浦郡沼田(現在の浦賀)に住んでいたこと、それから大住郡岡崎に移ってきたこと、鎌倉の由比ガ浜の自宅で亡くなったこと、などが書かれています。


寿福寺
当時、源義朝の家来だった義実が、義朝を弔うためのお堂を建てていた場所に、岡崎義実死去後に建てたお寺。
その後、子の土屋義清が継いで、後に北条政子の元に移ります。


証菩提寺
佐奈田与一義忠の菩提を弔う為に、源頼朝によって1189年(文治5年)に創建されたお寺。
寺院の名所「證菩提」は義実の法名。
本堂の裏に、岡崎義実のお墓もあります。

