飯田家義|平家方の身内に囲まれながらも、頼朝を助け信頼された人物

飯田家義|平家方の身内に囲まれながらも、頼朝を助け信頼された人物

2021-10-24

飯田五郎家義(いいだ いえよし)

生没年不詳
渋谷重国の五男として生まれ、大庭景親の娘を娶り平家方の武士だったが、源氏方に心を寄せていて、頼朝勢を土肥のへと逃避させた。

『源平盛衰記』では飯田三郎家能と表記されるが同一人物とされる。

飯田家義の簡易年表

吾妻鏡では、治承4(1180)年の次に登場するのが正治2(1200)年と、物凄く飛んでいるので、途中何をしているのか分かりませんでした。

他の書物も見ていかないとダメなのかな・・・。

時期年齢出来事
生誕不詳0誕生(父:渋谷重国)※諸説あり
大庭景親と所領争いの後、和睦して娘を娶る
治承4(1180)年石橋山の戦い
平家側として参戦するが、源氏方に加勢する計画だった
富士川の戦い
源氏方として戦い武功をあげ、飯田郷を安堵される
正治2(1200)年梶原景時の変
駿河国にて梶原景時(景茂の郎党2人)を討ち、駿河国大岡の地頭となる

富士川の戦い

治承4(1180)年10月

頼朝の黄瀬川出陣(富士川の戦い)に従い、平維盛(重盛の嫡男)数万の軍と対戦した時、一子太郎は射殺されたが、家義は奮戦して怯まず、敵「伊藤小次郎」を追いその首級を頼朝に献じた。

「前(石橋山の戦い)にはわが命を救い、今また戦功をなす、本朝無双の勇士なり」と賞され、この地(飯田)を与えられた。家義は鎌倉に近い相模野台地の要地に館を定め一族の墳墓の地とした。

梶原景時一族の最後

同じ平家方から源氏方へ寝返った尊敬する(していた?)梶原景時の殺害を命じられた飯田五郎家義はどんな気持ちだったのでしょうか?

著書「梶原景時ー知られざる鎌倉本体の武士」には、味方に悟られない様に、梶原景時を逃して自害する機会を与えたのではないか?と推測しています。

正治2(1200)年1月20日

夜10時、梶原景時父子、駿河国清見関に到着。
近隣の甲乙人等が集まっているときに景時に遭遇。飯田五郎家義は追いかけた。

同年1月23

駿河国の住人、軍士らの合戦の記録が鎌倉に到着し大江広元が御前で読んだ。

正治2(1200)年1月20日
駿河国において、梶原景時父子、同家子郎等を追罰する事。
一、飯田五郎が手に、景茂が郎党二人を討ち取る。

※飯田五郎の箇所だけ、取り上げて記載しています。

飯田家義周辺の系図

飯田五郎家重は渋谷重国の五男。近江源氏の佐々木氏や、大庭景親など有名人に囲まれています。


河崎重家
 ├-------┐
渋谷重国    渋谷金王丸常光土佐坊昌俊)            大庭景親
 ├-------┬-------┬--------┬--      |
渋谷高重    渋谷重助    佐々木秀義室   飯田家義=====大庭景親娘
                          |
                          太郎

子 太郎

治承4(1180)年10月

黄瀬川の出陣に従い、平維盛数万基の軍と対戦。一子太郎が射殺されたが奮戦してひるまず、敵伊藤小次郎を追い其の首級を頼朝に献じた。とあります。

飯田家義ゆかりの地

横浜市泉区下飯田町

周辺の位置関係としては、

北側には、父の渋谷重国の拠点、綾瀬市や高座渋谷駅がある大和市渋谷。
南西側には、妻の父である大庭景親の居館があった藤沢市大庭。
大庭景親の弟、俣野景久の拠点、戸塚区俣野町とは下飯田町の南東側で隣接しています。

富士塚城址公園

▶ 横浜市泉区下飯田町1015-1|駐車場:無し

飯田家義が晩年を過ごした飯田郷にある、飯田五郎家義の館と伝わり、富士山が見える場所にあります。
現在、館跡周辺は富士塚団地が建っていて遺構は残っていません。

城址碑には、飯田五郎家義は源頼朝延命の恩人と書かれています。

東泉寺

▶ 横浜市泉区下飯田町 743|駐車場:有り

泉区下飯田町にある東泉寺には、飯田五郎家義ゆかりのお寺です。
山門を入ってすぐ左には、飯田五郎家義の供養塔が建っています。

山門前の道は「かまくら上の道(鎌倉と群馬方面を結ぶ)」と呼ばれています。

東泉寺 薬師堂

飯田家義は鎌倉二階堂にあった永福寺 薬師堂の薬師如来を信仰しており、社寺のなかった飯田の地に、この薬師如来を勧請して薬師堂を建立した。天正18(1590)年頃、東泉寺境内に移転された。

鎌倉上の道(飯田)

上記の東泉寺の横を通っている道が、新田義貞なども通ったと思われる「鎌倉上の道」
道の辻に守り神として祀られてきた民間信仰の石仏「道祖神」が、富士塚公園~東泉寺の途中にありました。

相模武士に関するおススメ書籍

PAGE TOP