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叡昌山 妙隆寺(えいしょうざん みょうりゅうじ)
日蓮を本尊とする至徳2(1385)年建立の日蓮宗寺院です。
※1385年は、足利義満が第三代室町幕府の将軍になっていて、もうすぐ南北朝が統一されるという時代
妙隆寺は千葉氏が大きく絡む寺院なので、下記の書籍なども読んで一緒に理解したほうが面白いと思います。
開基:千葉胤貞(ちば たねさだ)
千葉胤貞(1288-1336)
妙隆寺は、千葉胤貞(千葉大隅守平胤貞)の別邸跡に創建されました。
名字が千葉なので、鎌倉時代からの有力御家人「千葉常胤」の子孫になります。
後に、日蓮宗に帰依し「日胤」と号します。
中山法華経寺の側にある、日親ゆかりの法宣院の開基にもなっています。
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千葉頼胤(嫡流、千葉氏9代)→ 元寇対応のため九州へ
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宗胤 胤宗(嫡流へ)→ 北条時宗から方諱
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胤貞 貞胤 → 北条貞時から方諱
|(猶子)
日祐
(曽谷氏の子?)
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
元々、千葉胤貞は千葉氏嫡流の流れを汲むのですが、祖父が元寇の対応で九州に行き戦死。子の宗胤も父と同じく九州へ行き、胤貞は九州で生まれ育ちます。
そのため、鎌倉(関東)へ残った宗胤の弟「胤宗」が、鎌倉幕府の後押しの元、嫡流になってしまいました。胤貞は少し不運な人生を歩みます。
千葉宗家に仕えていた曽谷氏・富木氏らが信仰していた日蓮宗を庇護し、今の中山法華経寺がある八幡荘(今の市川市付近)が所領で、そこには法華経寺があります。
妙隆寺は胤貞が日英を開山として迎えたとありますが、お互い同じ世にいません。胤貞死後に妙隆寺を建てた土地は猶子で日蓮宗の僧侶「日祐」が引き継ぎ、元々千葉胤貞のモノだったので開基として名が残ったのだと思います。
開山:日英
日英(1346-1423)、法華宗中山門流の僧侶。
開基の千葉胤貞が、下総の中山(胤貞の領地だと思われる?)法華経寺の日英を開山として迎えました。
4歳で法華経寺「法宣院」に入門。
中山門流の支援者千葉氏の保護を受けて、関東各地の多くの寺を建立しました。妙隆寺もその一つ。
なべかむり日親で有名な「日親」は、日英の甥にあたりるそうです。
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日英 日英の兄
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日親
第2世:なべかむり日親
日親(にっしん|1407-1488)
妙隆寺で日英の後を継いで、第2代住職となったのが日親。妙宣寺で叔父の日英に学び、中山法華経寺へ。
第6代室町幕府将軍「足利義教」に、立正治国論という意見書を出し幕府を批判し、京都で開いた本法寺は破却。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被りながらも説法を説いたとして「鍋かむり日親」と呼ばれるようになりました。
妙隆寺の境内には、21歳の時にココに来た日親上人が、寒百日間水行などの修行を積んだとされる池があります。まるで、今も行われてる世界三大荒行の一つ「日蓮宗大荒行」と同じ感じですね。
妙隆寺の境内
丸山定夫
第二次世界大戦の広島で被爆死した「新劇の團十郎」と呼ばれた人物。鎌倉にどのようなゆかりがあってココにあるのか、調査不足です。
妙隆寺境内の裏手に石碑があります。(普通に本堂だけお詣りしてたら見つかりません)
フヨウ
妙隆寺で有名な花は、夏の8月頃に咲くフヨウ(芙蓉)。本堂前にびっしりと咲きます。
寿老人(鎌倉・江ノ島七福神)
また、妙隆寺は鎌倉江ノ島七福神の一つで、欅の一本造りの寿老人がいます。
人々の安全と健康を守り長寿を司る副神です。
妙隆寺へのアクセス
JR鎌倉駅から徒歩5分以内の場所にあります。
若宮大路側からは行けないことも無いですが、住宅地の裏道を通って、妙隆寺の裏側から入る感じになりますので、正門がある小町大路(宝戒寺~本覚寺へ繋がる南北道)から入るのが良いでしょう。
観光者向けの駐車場はありません。近くにコインパーキングが何件があります。
拝観自由です。