聖徳太子講(しょうとくたいしこう)
日本全国いろんな場所で行われている行事で、聖徳太子講、または単に、太子講とも呼ばれています。
「講」は、共通の信仰対象を持った人々の集まりの事。
お寺等には、よく「〇〇講中」と書かれた石柱が建ってますが、同じ仲間が共同で神社仏閣に奉納したモノですね。
聖徳太子(厩戸皇子)の死亡日が2月22日ですが、新年の集まりに2月下旬は遅すぎるので、年初めの月命日と決めたのかも。(職人組合が決めるそうですが)
聖徳太子講の場所、開始時間
毎年1月22日 於 宝戒寺 13時~14時
宝戒寺の門を入って右側
菊の紋章がついた扉の太子堂は聖徳太子を祀るお堂にて、鎌倉市内やその周辺の建築業関係者・植木屋・石屋等を営む人が集まり、護摩供養・読経し、木槍唄などが奉納されます。
2024年度は、鎌倉建築組合、鎌倉造園組合、鎌倉鳶職組合の三団体が参加されていました。それぞれ法被が異なりました。
時間になると、鎌倉鳶職組合の小頭の文字が書かれた法被を着た方が僧侶をお迎えし、聖徳太子堂に入られます。
そして、読経が始まり読経の後半にはお焼香、その後の護摩焚きではお堂から煙が噴き出るほどの大きな炎が、終わると、鎌倉鳶職組合の方が全員で木遣唄を奉納。
最後には、お堂から出た僧侶の方が本堂に戻ると式は終了となります。
僧侶は3名ほどいらっしゃいました。
鎌倉木遣唄(かまくらきやりうた)
鎌倉鳶職組合木遣保存会にて伝承されている芸能。
鎌倉木遣唄は本格的な江戸系鳶職木遣唄で市指定無形文化財。
毎年1月4日の手斧始式(鶴岡八幡宮)で、御神木が二の鳥居から舞殿まで運ばれるときにも歌われています。
なので、今回の聖徳太子講も、鎌倉木遣唄をお堂の前で歌ったのは鎌倉鳶職組合の方々。建築、造園組合の方々は横で聞いていました。
以前は、宝戒寺の太子講には大工・とび職など建築関係の人が関東一円から集まってお参りをして、その年の手間賃(日給)などを決めたという実務的な集会のような意味合いや新年の集まりの意味もあったようです。
聖徳太子(下記に概要)は日本に仏教を取り入れた人として有名で、その関係で、法隆寺(奈良)、四天王寺(大阪)など寺院建立に大きな功績があり、また、すぐれた工芸技能者を育てたことから寺院の建築や工芸品などを作る職人たちから職人の祖として古くから敬われています。
宝戒寺
1335年(建武2年)後醍醐天皇が北条一族の霊を弔う為に足利尊氏に命じて、北条執権屋敷跡に建立させた寺院。ハギの寺としても有名(白ハギ)
宝戒寺後方の葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にある「北条高時腹切りやぐら」は宝戒寺が管理。
聖徳太子とは
第31代「用明天皇」の第2子として574年に生まれます。
第33第「推古天皇(女性天皇)」の時、摂政となり政治を助けていましたが天皇にはなっていません。
中国の随に使いを送り(遣隋使)、朝廷の儀礼や制度(冠位十二階など)の整備をはかり、また仏教を篤く信仰して、法隆寺(奈良、世界遺産)を建立しました。
29.欽明天皇 | - | 30.敏達天皇 | - | 押坂彦人大兄皇子 | - | 34.舒明天皇 |
- | 31.用明天皇 | - | 聖徳太子 | - | 山背大兄王 | |
- | 32.崇峻天皇 | |||||
- | 33.推古天皇 |
愛犬は雪丸
聖徳太子が建てた法隆寺の近くにある交通の拠点「王子駅」を擁する王子町のマスコットキャラクターは雪丸(ゆきまる)と言います。
聖徳太子が飼っていた犬で、なんと人間の言葉を理解したとか、お経を読んだとか(笑)
今は、王寺町にある聖徳太子ゆかりのお寺「達磨寺」に葬られたと伝えられていて、境内に雪丸像があります。
聖徳太子と毘沙門天
奈良県にある信貴山朝護孫子寺に次のような話が残っています。
時は西暦582年(古墳時代後期)、仏教を日本に広めようとする蘇我氏と聖徳太子に抵抗した、古来からの神道こそ大事との考えを持つ物部氏(守屋)。
その仏敵「物部守屋」を征伐するために河内へ向かう途中、この山(信貴山)へ登り戦勝祈願を行うと、なんと毘沙門天が出現し必勝の秘法を授けてくれました。そのおかげで勝利したのです。
この話より、聖徳太子は毘沙門天を感得(身につけた)したとされ、関係の深い仏神です。
偶然かもしれませんが、聖徳太子講を行う「宝戒寺」では鎌倉江ノ島七福神の「毘沙門天」が祀られています。