今回は、鎌倉殿の13人の一人、三善康信(1140-1221|公家)が初代執事をつとめた「問注所」跡にある石碑を読んでみました。
目次
問注所舊蹟(旧跡)

問注所旧跡の石碑場所
石碑に書かれている文字は?
元暦元年 源頼朝幕府東西ノ廂ヲ以テ訴訟裁断ノ所ト為ス之ヲ問注所ト稱ス 其ノ諸人群集シ時ニ喧噪ニ渉ルコトアルヲ厭ヒテ正治元年頼家之ヲ邸外テ遷ス此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ
大正六年三月建立 鎌倉町青年會
1184年(元暦元年)、源頼朝は大倉幕府の東西の脇に裁判所を建て、これを問注所と言った。そこには色んな人が集まり、喧嘩になることもあり、これを嫌がって1199年(正治元年)源頼家が問注所を郊外へ移した。それがこの場所である。
大正6年3月設置 鎌倉町青年会
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字編)
舊:現在の「旧」 → きゅう ①古いこと ②むかし 他
廂:現在の「庇」 → ひさし ①建物の内部で母屋の外側部分 ②日や雨を防ぐ子屋根 他
事前知識(歴史編)
元暦元年
元暦(げんりゃく)。1184年~1185年。後鳥羽天皇の即位に伴い改元。
前元号は「寿永(じゅえい)」、次元号は「文治(ぶんじ)」
正治元年
正治(しょうじ)。1199年~1201年。土御門天皇の即位に伴い改元。
前元号は「建久(けんきゅう)」、次元号は「建仁(けんにん)」
問注所
訴訟や裁判事務を担当する機関。現在の裁判所のような場所。
石碑からも分かるように問注所が作られたのは1184年。公文所(政所の前身)も同じ1184年設置ですね。
初代執事は「三善康信」。三善康信は二階堂行政と同じく京都から来た文人。
しかしあくまで、訴訟の判断を下すのは「源頼朝」で、問注所は訴訟に必要な文書を作成して手続きを進めるところだったようです。
鎌倉幕府の三大機関「侍所」「政所」「問注所」。
重要なので大倉幕府の近くにあると思ってましたが、結構離れた場所に問注所ってあるんだな?と石碑を見た時から思ったんですけど(石碑の中身は読んでない・・・)、頼家が嫌がって遠くに移したんですね。
今も昔も、自分の近くで喧嘩とかあったらストレス溜まって嫌ですよね。気持ちわかります(笑)
問注所の移転
という訳で、問注所は鎌倉時代に何回か移転を繰り返しています。
治承四年12月 大倉幕府内に創設
建久3年11月 三善康信(善信)の名越邸に移転
正治元年 4月 幕府郭外に開設 ←この石碑はこの時の事
建長4年 4月 鶴岡八幡宮寺、東側政所郭内に置かれていた。
この石碑について書かれているのは、正治元年(1199)年分ということが分かりますね。