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御鎮座記念祭(ごちんざきねんさい)
鶴岡八幡宮の三の鳥居の横に設置してある説明板。
その中に書かれている「主な年中行事」にも挙がる「鎮座記念祭」について深堀してみました。

建久二年当宮鎮座日(旧暦十一月二十一日)御神楽を奉奏する
鶴岡八幡宮説明板(三の鳥居横)
タイムスケジュール
御鎮座記念祭の大まかな流れは下記の通りです。約1時間の神事です。

17:00~ 神職の方が大階段を登って本宮(上宮)へ
※この間、本宮へは上がれない為、神事は非公開です。
17:25~ 神職の方が本宮(上宮)から舞殿北庭へ
17:28~ 鶴岡八幡宮の境内の灯かりが消される
17:30~ 御神楽 神職による「人長舞」と「宮人曲」に合わせて舞う四人の巫女
神事のあらすじ
御鎮座記念祭は、名前の通り、神様が鶴岡八幡宮に祀られた(鎮座された)ことを記念して行われるお祀りです。今の鶴岡八幡宮の誕生日とも言うべき日で、創建当初から伝わり約800年の歴史を持つとても貴重な神事なのです。
1180年 源頼朝が鎌倉へ入った後、真っ先に由比若宮(元八幡)から今の鶴岡八幡宮へ神様をお遷つしましたが、翌年に火災で燃えてしまいます。一度は落胆した頼朝ですが、すぐに現在の上下両宮の形によりパワーアップした鶴岡八幡宮を約8か月で再建させました。
その完成記念(神様の遷座)では、京から楽匠の”多好方(おおのよしかた)”を呼び「宮人曲」を演奏してもらったところ、神感の瑞相があり頼朝はとても感動したそうです。
また、国風歌舞(くにぶりのうたまい)の一つ「人長舞(にんじょうまい)」も「宮人曲」に続いて行われますが。4人の巫女による神楽の舞は宮中などでは見られない、鶴岡八幡宮独特のものだそうです。
日程は、新暦に換算した日の12月16日午後17時という、真冬の寒い時期に行われますが、境内の灯かりがすべて消され篝火だけの幽玄な世界、鎌倉ファンなら一度は見ておきたい祭事です。
(参考)文化デジタルライブラリー(雅楽)
吾妻鏡より
ここでは、吾妻鏡からご鎮座記念祭に関連する内容を時系列で追ってみたいと思います。
頼朝の鎌倉入り
治承4年8月に伊豆で挙兵した源頼朝、石橋山の戦いで一度は平家軍に敗北するものの安房へ逃れた後に軍勢を増やし、ついに源氏ゆかりの地「鎌倉」へ入ります。

「鎌倉」へ入った頼朝は、すぐに元八幡から今の北山郷へ八幡宮を遷します。
治承4(1180)年10月6日 源頼朝が相模国「鎌倉へ到着」
治承4(1180)年10月12日 由比若宮(元八幡)から、現在の鶴岡八幡宮(小林郷)へ遷座
※まだ、簡素な社状態です
鶴岡八幡宮の火災
鎌倉へ入ってから約10年後、平家を滅ぼし奥州藤原氏も滅亡させ、一息ついた鎌倉に災難が発生します。
建久2(1191)年3月4日 南風が激しく吹いていた日。夜中の午前二時頃に小町大路の辺りで火事が発生しました。北条義時邸、比企能員邸、佐々木盛綱邸などの家屋を焼き、風に乗って幕府御所や鶴岡八幡宮まで延焼。鶴岡八幡宮の若宮神殿、廻廊、経所などがことごとく灰となった。頼朝は、甘縄の安達盛長邸に避難した。
その後、悲しんだ頼朝でしたが、3月6日には鶴岡八幡宮の別当に再建造営の命令を下し、若宮の仮殿への遷宮(3月13日)、また京都から一条能保が火事のお見舞いに駆け付けるなど、慌ただしい日々を過ごします。
鶴岡八幡宮の再建
鎌倉の中心ともいえる鶴岡八幡宮の再建によって、現在の上下両宮の形に変わります。
再建の間は仮のお宮で、神事も鶴岡臨時祭という形で行われていたようです。
建久2(1191)年4月26日 鶴岡若宮の上の土地(現在の本宮)に初めて八幡宮を勧請するために宝殿を造営し、上棟が行われた。
建久2(1191)年8月27日 鶴岡若宮と末社、熱田・三島社の回廊の上棟が行われた。
※今の鶴岡八幡宮には熱田・三島社はありません
鶴岡八幡宮の火災から約9か月。
新しくなった鶴岡八幡宮に神様(応神天皇)が遷座され、新生・鶴岡八幡宮がスタートします。
このお目出たい日を復元している神事が「御鎮座記念祭」ということになりますね。
建久2(1191)年11月21日
丙寅、晴れ、風が穏やかな日。
鶴岡八幡宮と若宮、末社などの遷宮が行われた。和田義盛、梶原景時の兵たちが辻々と境内を警固した。その後、御束帯、帯剣の源頼朝が鶴岡八幡宮に参られた。
北条義時が頼朝の御剣を持ち、御座の傍らに祗候、また、小山(結城)朝光も同じく祗候した。
神様を遷座し、多好方が宮人の曲を演奏した。たいそう神感の瑞相(神鏡や神殿が揺れるなどの奇瑞)があったという。
警固した和田義盛、梶原景時は侍所の別当、頼朝に祗候した北条義時、小山朝光は頼朝の家子です。
登場人物
ここからは、吾妻鏡に登場し御鎮座記念祭にも関わっている人物を紹介します。
多好方(おおのよしかた)
平安時代後期の京の楽匠(音楽を演奏する人)
多氏は奈良時代から続く雅楽「御神楽」の始祖。代々、宮廷に仕えました。
ちなみに、古事記の編者「太安万侶(おおのやすまろ)」も同じ一族。「多」「太」と漢字は違いますが読みが一緒ですね。奈良の田原本町多には「多神社」があり、多氏の本拠地だったようです。
1.神武天皇
┣-------┳
2.綏靖天皇 神八井耳命(かんやいみみのみこと)
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(多氏)
|
多近方
┣-------┳
多好方(1130-) 多好節(1166-) → 兄弟(親子?)揃って鎌倉へ下向
※吾妻鏡には好節は近方の子とありますが、実際は好方の子だと思われます。もしくは近方の養子になったか。
源頼朝に呼ばれて鎌倉へ下向し、鶴岡八幡宮の遷座の儀で神楽の「宮人」を奏します。
感動した源頼朝は、引き続き鶴岡八幡宮で御神楽を奉奏したいと、大江久家を上京させ伝授するようにお願いします。というのも、神楽歌「宮人」は多氏の秘曲で、他家には伝えない曲だったのです。
それでも、将軍の命ということもあり秘曲を伝授した多好方は、この件で、建久4(1193年)11月12日 源頼朝から荒城郷(あらきごう)の地頭職を与えられました。これで飛騨地方にも、舞楽が広まったとも伝えられています。
雅楽について
雅楽(ががく)というのは、昔から日本に伝わる歌や舞、また、中国大陸や高句麗などから伝わった舞や器楽などが融合され、平安時代には貴族たちの教養文化になりました。
この分野をしっかり把握していると、NHK大河ドラマ「光る君へ」や「源氏物語」がより楽しめるようになると思います。(という訳で勉強中です)
雅楽は、大きく3つに分類できるようです。
種目 | 分類 | 演目? |
---|---|---|
舞楽(ぶがく)・管弦(かんげん) | 唐楽(左舞) | 青海波、柳花苑(花宴巻) |
高麗楽(右舞) | 納曽利(蛍巻) | |
国風歌舞 (くにぶりのうたまい) | 神楽・東遊 | 人長舞(鶴岡八幡宮) 東遊(若菜巻) |
歌物(うたもの) | 催馬楽(民謡) | |
朗詠(漢詩) |


人長舞(にんじょうまい)
鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭でも、篝火の中、神職が舞っています。
宮中で行われる『御神楽(みかぐら)』は組曲の形式をもち、その進行を担う人長(にんじょう)によって舞われる曲が『人長舞』です。宮人(みやびと)は大前張の部の中にカテゴライズされる曲の一つです。
一般の神社の祭りなどで奏される『神楽(かぐら)』と区別して、御神楽と称されています。
