以仁王|全国の源氏に平家打倒を促した、後白河法皇の第三皇子

以仁王|全国の源氏に平家打倒を促した、後白河法皇の第三皇子

2022-09-18

以仁王(もちひとおう)

1151-1180

後白河天皇の第三皇子。全国の源氏に平家打倒の挙兵を促した「以仁王の令旨」を出し、治承・寿永の乱のきっかっけを作った人物。高倉宮とも。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、木村昴さんが演じられます。

以仁王の簡易年表

時期年齢出来事
仁平元(1151)年0誕生(父:後白河天皇
応保2(1162)年12天台座主の弟子になるが、師が亡くなり還俗
永万元(1165)年15八条院(鳥羽天皇の皇女、後白河天皇の異母妹)の猶子となる
仁安元(1166)年16以仁王の皇位継承の可能性が消滅
治承4(1180)年30源頼政の勧めに従い、平氏追討の令旨を源氏に発する
平家側に計画が露呈
園城寺から興福寺への移動途中に平家の家人に討たれる
第一王子「北陸宮」は木曽義仲のもとに逃れる

源行家との関係

令旨を伝達する使者は源行家(源義朝の弟)で熊野に隠れ住んでいた。
源行家は、八条院蔵人(朝廷の機密文書の保管、宮中の儀式などと担当)で以仁王と近い関係にあったとされる。

源頼政との関係

保元の乱と平治の乱で勝者側につき、平清盛に信頼され晩年には従三位(破格の地位)となり公卿となった。

が、二条天皇に仕えた頼政は、高倉-安徳天皇ラインを快く思っていなかったのか?
また、嫡男の仲綱が、清盛の三男「宗盛」に侮辱を受けたからなのか?

以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画した。

源頼政|平清盛から信頼された源氏の長老、以仁王と結んで挙兵を計画
源頼政(みなもと の よりまさ) 1104-1180。保元の乱と平治の乱を勝ち抜き、源氏として破格の従三位に昇叙された摂津源氏一門。摂津渡辺氏を配下に収めていた…
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以仁王周辺の系図

後白河天皇(第77第天皇)の第一皇子は二条天皇(第78第天皇)。
六条天皇の後、以仁王の異母弟「高倉天皇(第80第天皇)」が即位し皇位継承が出来なかった。


   鳥羽天皇         
 ┏--┻--┳          
八条院   後白河天皇======建春門院    平清盛
|┏-----┫       |          |
以仁王   二条天皇    高倉天皇======建礼門院(平徳子)
 |     |        |      |
北陸宮   六条天皇    後鳥羽天皇   安徳天皇

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

以仁王ゆかりの場所

園城寺(三井寺)

園城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山。
延暦寺を山門と呼ぶのに対し、園城寺は寺門という。座主補任問題等でよく延暦寺と抗争した。

以仁王の挙兵時は、園城寺が匿ったため平家軍に焼かれたが、源氏との結びつきが強い寺。

如意越 起点

「平家物語」に、治承4(1180)年、以仁王と源頼政が平清盛に反旗を翻した時に、如意越を通って三井寺に入ったことが書かれています。

三井寺と京都を直結する(三井寺-長等山-如意ヶ岳-鹿ケ谷)重要な道だった。

※如意越起点の石標は、水観寺近くにある拝観受付の手前に設置されています。

高倉宮跡

以仁王の邸宅跡とされる場所、三条高倉にあるために高倉宮と呼ばれました。
ビルの前に大きな石碑が建っていますが、説明板などはありません。

ここに源頼政などが通っていたと想像できますね!

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