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源行家(みなもとのゆきいえ)
生年不詳-1186
源義朝父であり、頼朝の祖父に当たる、源為朝の十男。以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた人物。
熊野新宮にしばらく住んでいたので新宮十郎や新宮行家とも呼ばれる。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、杉本哲太さんが演じれます
源行家の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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1140年代の前半頃 | 0 | 誕生(父:源為朝、母:第15代熊野別当・長快の娘?) |
同母姉の嫁ぎ先の関係で熊野新宮に住む | ||
平治元(1159)年 | 20頃 | 平治の乱 兄義朝の味方として従軍し敗北。熊野に逃れる。 |
治承4(1180)年 | 源頼政に召し出され、以仁王の令旨を各地の源氏に伝達 | |
養和元(1181)年 | 墨俣川の戦い 源義円と平家の平重衡軍と戦うも敗北し逃走、木曽義仲の幕下に | |
寿永2(1183)年 | 木曽義仲と共に入京 義仲と序列を争い不和となり京を脱出し紀伊国へ逃げる | |
文治元(1185)年 | 源義経と組み、後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けるも、 味方は少なく頼朝上洛を知ると、大物浜からの西海渡航に失敗 | |
文治2(1186)年 | 40頃 | 山城国赤井河原にて、長男・次男共に斬首 |
吾妻鏡から
吾妻鏡の最初の条から登場
行家は吾妻鏡の初日からいきなり登場。義盛から行家に名乗りを変えたことも記されています。
治承4(1180)年 4月9日(吾妻鏡最初の条)
源頼政が以仁王の力を借りて平家打倒の令旨を賜った。
そこで、源為義の末子「陸奥十郎義盛(源行家)」が在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝に見えた後、そのほかの源氏にも伝えるように」と。
義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗りを行家と改めた。
同年 4月27日
八条院蔵人「源行家」が持ってきた以仁王(高倉宮)の令旨が、源頼朝のいる伊豆国北条館に到着した。
源頼朝は水干に改め、男山(石清水八幡宮)の方へ遥拝し、謹んで令旨を開いて見た。
源行家は、甲斐・信濃の源氏に触れるため、すぐに旅立たれた。
源行家周辺の系図
源行家は摂津源氏の流れ。
父「源為義」の十男です。源行家と鳥居禅尼(丹鶴姫)は同母(母は不詳)
鳥居禅尼が熊野別当家嫡流の行範と妻となった関係で、源行家と熊野地区は深い関係だったのでしょう。
源為義
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源義朝 義賢 為朝 行家 鳥居禅尼(丹鶴姫)
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頼朝 範頼 義円 義経 義仲 光家 行頼
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頼家 実朝 義高
行家と名乗るのも、熊野別当第19代の”行”範とのかかわりを強調する方が、令旨を持って諸国を歩き回る上で、何かと都合が良いからだと思われます。
熊野別当湛増(たんぞう)
1130-1198
21代熊野別当。湛増の妻の母は源為義の娘「鳥居禅尼」と、源氏とかかわりの深い人物です。
しかし、平治の乱では父「湛快」が平清盛方につき勝利し、以後平家方から多大な恩顧を受けていました。
そのため、源行家の行動を平家に報告し、以仁王の挙兵の計画が露呈したとされています。
その後、源氏と平氏両方から助けを請われ迷った挙句、紅白の闘鶏をおこない神慮を占い、源氏側へ。熊野水軍を率いて壇ノ浦の戦いに参加。河野水軍、三浦水軍と共に源氏の勝利へ貢献した。
源為義===長快(15代)の娘(熊野の女房) 長範(16代)
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源行家 鳥居禅尼===湛快(18代)→ ===行範(19代)
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湛増(21代) 行快(22代) ※系図には諸説あります
源行家ゆかりの地
新宮十郎行家(源行家|源義盛)屋敷跡
源行家は、当初「源義盛(源氏の通字”義”)」と名乗っていました。
行家を名乗るのは、源頼政が推薦し、八条院(以仁王は猶子)の蔵人に補任されてからです。
遺構は無く、比定地とされた場所に、今は看板のみあるようです。
また近くにある「東仙寺」は、同母姉の鳥居禅尼創建の寺院。
墨俣川古戦場
養和元(1181)年 頼朝軍には従わず独自勢力を志向した行家は、甥の源義円と共に墨俣川で平家軍と戦うも敗北。源義円は討ち取られ、行家は熱田社へ籠った(治承5(1181)年3月19日条)
源行家は弁舌達者で、熊野山伏のネットワークも兼ね備えた人物だったが、兵力や戦術には劣っていた。
大物浜
源義経と行家は大物浜(兵庫県尼崎市)から九州方面へ船で脱出しようとしたが、暴風雨の為に失敗。
浜に上がると吉野方面へ逃走。
義経と別れた行家は、和泉国に潜伏しているところを鎌倉方に見つかり、格闘の末に捕らえられた。