天台寺門宗総本山。
天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたという霊泉(井戸)があることから、御井寺→三井寺となった。
源氏ゆかりの寺院であり、平氏側の比叡山とは、度々争った。
日本4箇大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の一つ
目次
総本山園城寺 三井寺
▶ 大津市園城寺町246|🅿あり有料|拝観料 600円(大人)


吾妻鏡より
吾妻鏡を読むと、鎌倉時代前後での源氏と三井寺との関係を伺い知ることができます。
以仁王が三井寺に入る
以仁王が平家追討の令旨を発したことが平家に露見してしまったため、検非違使たちが以仁王の御所を取り囲んだ。以仁王は逃げ出していたが、若宮が六波羅に連れていかれた。
治承4(1180)年 5月19日
以仁王は、5月15日に密かに三井寺に入り、衆徒が法輪院(現在廃寺)を御所にしたと、京都で噂が広まったため、源頼政が一族家人を率いて以仁王の元に向かった。
同 5月26日
以仁王は奈良へ向けて出発。三井寺だけでは軍勢が足りず興福寺の衆徒をあてにしたため。
しかし、平知盛、維盛などの平清盛の子や孫が2万騎の官軍を率いて後を追い、宇治の辺りで合戦。
源頼政や子の仲綱の首が晒された。以仁王も光明山(現京都府相楽郡山城町)で最期を遂げられた。享年30。
如意越
以仁王が三井寺に入ったルートは鹿ケ谷から山を越えていく如意越ルートとされています。


園城寺が平家に攻められ焼失
治承4(1180)年12月11日
平清盛が平重衡を園城寺に派遣、今年の5月に以仁王に加担したことにより寺の衆徒(僧侶)と合戦。
今後、頼朝に加勢すると考えた上での行動。
翌 12月12日
園城寺が平家の為に焼失。金堂以下、堂舎・塔廟、経巻、聖教などほとんどが灰になった。
園城寺で出家した義円が出陣
治承5(1181)年 3月10日
源行家(頼朝の叔父)、僧「源義円」らが尾張・参河の武士を率いて墨俣川の辺りに陣を張った。
平氏方は平重衡、維盛、忠度らが墨俣川の西岸に陣を張った。
行家の奇襲作戦は平家方に漏れ失敗。源義円は平家方に討ち取られてしまった。
園城寺と千葉氏の関係も
治承5(1181)年 5月8日
園城寺の律静房日胤(にちいん)の弟子、僧日恵(にちえ)が鎌倉へ参った。
日胤は千葉常胤の子息で、源頼朝の祈禱の師だったが、以仁王と共に討たれて亡くなってしまった。
同年12月11日
日頃から腹を煩っていた日恵が亡くなり、山内庄に葬った。頼朝自ら荼毘所へお出かけに。
鶴岡八幡宮寺の別当を輩出
寿永元(1182)年9月20、23日
園城寺の僧「円暁」が京都から下向した。
鶴岡八幡宮にお参りに誘い、鶴岡八幡宮寺の初代別当職(最高責任者)への依頼を拝殿でお願いした。
円暁の母は、源為義(頼朝の祖父)の娘で、源氏関係者。
園城寺への寄進のお願い
園城寺は源頼朝(の役所)に対して、平家領没官の地を寄進するように牒状を持参してきた。
元暦元(1184)年11月23日
この文章には、以仁王を匿い源氏の計略に味方した事、先祖「源頼義」が園城寺に参詣し東北夷を降伏させたこと、逆臣降伏(平家)の祈禱を心を込めて行ったこと、などが書かれていて、よって園城寺の繁栄は源氏の扶持次第であり、園城寺を敬い繁栄を招くべきと。(実際はもっと長文)
その翌日、源頼朝は若狭国玉置領(平家没官)を寄進することに決められた。
政子の孫「公暁」が園城寺に入室
建暦元(1211)年
政子の考えもあり、公暁は父源頼家の成仏を祈るために仏門に入り、17歳になるまで園城寺で修業した。
園城寺では公胤(こういん|村上源氏出身)の門弟(弟子)として入室、貞暁(頼朝の三男(庶子))の受法の弟子となった。
三井寺の見どころ
金堂(本堂)
天台寺門宗の三井寺の総本堂。国宝。
平安、鎌倉時代を通じて、源平争い等の動乱などにより、被災、再建を繰り返してきた。
本尊は秘仏の弥勒仏(天智天皇の念持仏)


弁慶の引摺り鐘
その昔、三井寺が比叡山と争った時に、比叡の荒法師「武蔵坊弁慶」が三井寺に攻め込み、この鐘を持って比叡山まで引き摺り上げて撞いてみると、「帰りたい」と響いたので「そんなに三井寺に帰りたいのか」と谷底へ投げ落としたと言われています。
引き摺り跡やヒビはその時のものだとか・・・。


観音堂(西国三十三所)
源頼朝が坂東三十三所を発願するにあたり参考にした西国三十三所。
三井寺は第14番札所として、多くの参拝者がやってきます。


重要眺望点
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第三話の大河紀行で「三井寺」が紹介されました。
その冒頭の映像が、三井寺にある重要眺望点からの琵琶湖方面への眺望です。(観音堂の上部)

