今回は材木座にある谷戸の一つ、住民じゃないと知らないんじゃないかと思う場所にある「弁谷」の石碑を見つけたので、読んでみることにしました。
目次
辨谷(弁谷|べんがやつ)
「辨谷」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
元亨元年相模守北條高時ノ創建セシ金剛山崇壽寺ハコノ地域ニ在リシナリ道興准后ノ廻國雑記ニ記セシ紅谷ト田代系圖ニ據リ千葉介ノ敷地トスル別谷トハ共に辨谷ニ同ジトスル説アルモ詳ナラズ
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
1321年(元亨元年)相模守「北条高時(執権)」が創建した「崇壽寺(崇寿寺|すうじゅじ)」は、この地域にあった。
道興准后の「廻国雑記」に書かれた紅谷(べにがやつ)と、田代系図に記されている千葉介の敷地の別谷(べつがやつ)は、共に弁谷(べんがやつ)と同じとする説もあるが、詳しいことは分からない
昭和7年3月建立 鎌倉町青年団
※間違ってたらごめんなさい
事前知識(漢字編)
辨:現在の「弁」 → 辨谷:弁谷(地名)
圖:現在の「図」 → 田代系圖:田代系図
據:現在の「拠」
事前知識(歴史編)
元亨
1321年~1324年。
げんこうと読む。後醍醐天皇の時の年号
金剛山 崇壽寺
第14第執権の北条高時が創建したお寺。臨済宗。現在は廃寺。場所も規模も不明。
開山の「南山士雲」は北条貞時の招きで鎌倉に来て、東勝寺、建長寺などの住持もつとめた。
廻国雑記
室町後期の紀行(古寺の巡歴記)。聖護院門跡「道興准后(関白「近衛房嗣」の子)」著。
1486年に京都を出発して北陸・関東・奥州を遊歴した時の紀行文。
千葉介
平安時代末期以降に、下総国千葉郡千葉荘を本拠としていた武家「千葉氏」が代々名乗った称号。
有名な人物としては「千葉常胤(つねたね)」がいる。
常胤の館跡と伝えられています。常胤の官職とされる下総介の「介※」の唐名「別駕」から、彼が住んだ谷部分を「別駕谷」とよび、それが「弁谷」に転化したとされています。
千葉氏ポータルサイト
弁ヶ谷
弁ヶ谷(辨ヶ谷|べんがやつ)鎌倉市材木座4に広がる谷戸の一つ。
谷戸の中に、さらに3つの支谷に分かれています。
弁ヶ谷東やぐら群
弁が谷の中でも最奥の桐ヶ谷のコンクリート崖下に弁ヶ谷東やぐら群の説明板があります。
が、最近伺った時には物置のような感じになっていて、説明板もひびが入って、前に木材が積まれてて、とてもじゃないけど読めない状態でした。
太平記と崇寿寺
北条高時が創建した「崇寿寺」。
今は廃寺ですけど、太平記の10巻「長崎高重最期合戦の事」で記載があるようです。
長崎高重は、北条氏得宗家の御内人。内管領「長崎高資(たかすけ)」の嫡男。
NHKの大河ドラマ「太平記」では、長崎高資を西岡徳馬が、その父長崎円喜をフランキー堺が演じてましたね。
鎌倉幕府で専横を極めたということで、憎たらしく描かれてましたね(笑)
長崎高時が崇寿寺の和尚に「武士とはどうあるべきか?」と尋ねて、最後の新田義貞との戦いに出向きます。
新田義貞の本陣は「九品寺」。弁谷とは目と鼻の先ですね。
材木座地区って、コンビニが一軒もなくて、今は海が奇麗な静かなところですけど、鎌倉幕府最後の決戦のあった場所なんですよね。重みがありますねー。