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鎌倉市内にある石碑
鎌倉青年会(団)が大正6年から、鎌倉の文化遺産を市民や観光客に分かりやすく説明するために、市内に旧跡案内の石碑を約80基建立しています。
こういうのも少し読めるようになると楽しいと思うので解読してみました。
でも、ただ読むだけで終わらすには勿体ないので、その石碑に書かれた内容から知識を広げていく事も忘れませんよ!
石碑の建立は大正時代
ポイントは大正時代ということですね。
現代と違う漢字が使われていたり、また「ひらがな」ではなく「カタカナ」で書かれてるので慣れないと。
明治時代から昭和の前半まではまずカタカナを習ったそうです。その後にひらがなという順番。
ひらがなを使えない人もいたらしく、公用文書はカタナカだったと。
カタカナよりひらがな教育が優先になったのは戦後からと最近の事なんですね!
西御門(にしみかど)
石碑に書かれている文字は?
西御門ハ法華堂西方ノ地ヲ謂ウ 大蔵幕府西門ノ前面に當レルヲ以テ此名アリ 報恩寺 保壽院 高松寺 来迎寺等此地ニ在リ今高松来迎ノニ寺ヲ存ス
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
西御門は法華堂の西側にある場所の事。大蔵幕府の西門の前にあったことからこの名前が付いた。法恩寺、保壽院、高松寺、来迎寺等がこの地にあったが、今は高松寺と来迎寺の2寺が存在する。
大正15年3月建立 鎌倉町青年団
※間違っている箇所があるかもしれませんがご容赦ください。
事前知識(漢字編)
現代ではあまり見ない漢字も、石碑を読むうえでは理解しておいた方がよいですね。
謂:現在の「言」 → いい ①言うこと ②いわれ、意味
當:現在の「当」 → とう ①この ②あたる等
團:現在の「団」 → だん ①組織 ②円い
お寺とかで良く「當山」って書いてますけど、「このお寺は(当山)」っていう意味ですね。
事前知識(鎌倉知識編)
鎌倉には廃寺になったお寺も多く存在すると思われるので、石碑に知らないお寺が書かれていることも多そうですね。前向きに言うと、新しい知識が増えますね!
報恩寺
臨済宗。開基は宅間上杉家。すでに廃寺。
保壽院
足利基氏(鎌倉公方)の母の菩提寺。臨済宗。すでに廃寺。
高松寺
大正15年には鎌倉にありましたが、昭和6年に宮城県栗原郡に移転。
その時に山門は鎌倉山の「らい亭」へ移築されました。
来迎寺(西御門)
現在も鎌倉市西御門に残っていますね。時宗のお寺です。
※材木座にも来迎寺がありますので混乱せぬように。
この地には昔、太平寺という尼寺があった場所。
太平寺を知ると鎌倉の新しい知識が深堀りできるので、ぜひ読んでみてください。
東御門(ひがしみかど)
石碑に書かれいてる文字は?
大蔵幕府ニ四門アリ方位ヲ以テ名ヅク其東ニアルモノヲ東御門ト謂う佘轉ジテ地名トナル法華堂ノ東方一帯ノ地即ち是ナリ
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
大倉幕府には4つの門があり方位によって名付けられ、東側にある門を東御門という。これが転じて、法華堂の東側一帯のこの地を東御門と呼ぶようになった。
大正15年3月建立 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字編)
上記の西御門で調べた以外の漢字について記載してみました。
其:「それ」指示代名詞(中称)
是:「これ、ここ」指示代名詞(近称)
佘:現在の「余」
轉:現在の「転」
事前知識(鎌倉知識編)
法華堂
法華堂跡はもともと源頼朝の持仏堂で1189年に建立。
頼朝死後はここに葬られ、鎌倉の聖地的存在。その裏山に、源頼朝の墓を守るように、家子筆頭でNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公だった「北条義時」、鎌倉幕府の確立に貢献した「大江広元」の墓があります。
御家人の安達氏に敗北した三浦氏が自害の地に選んだのも、源頼朝ゆかりのこの地です。
鎌倉市内の旧跡案内石碑を読む
今回は二か所の石碑を読んでみましたが、慣れてしまえば結構よめるかもしれませんね。
これからも他の石碑もじっくりと解読してみようと思います。
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