一条実雅|鎌倉幕府内で順調に出世するも、伊賀氏の変に巻き込まれ転落

一条実雅|鎌倉幕府内で順調に出世するも、伊賀氏の変に巻き込まれ転落

一条実雅(いちじょう さねまさ)

1196-1228。鎌倉時代の公卿。一条能保の子。

母は異なるが、大姫との縁談が進められた一条高能(破談となった)、尊長(承久の乱の首謀者で僧侶)、西園寺公経、九条良経に嫁いだ姉?妹?などがいる。

北条義時死後、将軍擁立を目論んだ伊賀の方(伊賀家)に協力?利用?され、謀叛の疑いで流罪となった。
牧の方に利用された「平賀朝雅」と同じような運命ですね。

一条実雅の簡易年表

時期年齢出来事
建久7(1196)年0誕生(父:一条能保)
建保7(1219)年23源実朝の右大臣拝賀に随従
三寅(九条頼経|姉の孫)が、時期将軍に決定
貞応元(1221)年25参議に任じられる
元仁元(1224)年28伊賀氏の変が発覚
実雅は妻(北条義時の娘)と離別、越前へ配流
安貞2(1228)年32配流先で変死

吾妻鏡より

源実朝右大臣拝賀の随従

一条実雅は、実朝の右大臣拝賀の為に、京から鎌倉へ下向してきたと思われます。

建保7(1219)年

今日、源実朝(右大臣)の拝賀のため鶴岡八幡宮に参られた。
・・・(省略)
次いで殿上人(2列)   一条実雅(伊予少将)

伊賀氏の変が露見

伊賀氏の変が露見し、その対応についての話し合いが行われました。
一条実雅は公卿以上と言うことで、武家が処分を下すというのは難しく、朝廷側の伺いを立てるようです。

貞応3(1224)年 閏7月 3日

北条政子の御前で世上の事について審議が行われた、北条時房大江広元も参加。
伊賀光宗らが一条実雅卿を関東の将軍に立てようとして、その計略はすでに露見した。ただし、公卿以上をむやみに罪科には処しがたく、その身柄を京都に進めて罪名の事を奏聞して伺うことにする。
伊賀の方と光宗は流刑。その他の者は疑いがあっても咎めない。

同年 7月23日

卯の刻になって一条実雅卿が上洛の為に出発、
伊賀朝行、光重、宗義、光盛らが付き添った。

一条実雅の最期

吾妻鏡ではひっそりと書かれています。

元仁元(1224)年 10月10日

一条実雅(宰相中将)卿は、越前国に配流されることが決定した。

安貞2(1228)年 5月16日

後藤基綱(左衛門尉)が「先月29日に一条実雅卿(前右宰相中将)が越前国で亡くなりました(享年30歳)」一条実雅は、元仁元年に越前国に配流され、基綱が守護人だった。

一条実雅周辺の系図

一条実雅の父「一条能保」は、源頼朝の同母姉妹を妻にし、主に京に滞在しながら鎌倉幕府内で重用されましたが、一条実雅自体の母は藤原有恒の娘ということで、源氏の血は流れていなさそうです。

  源義朝      藤原通重 ※一条家(中御門流)の祖
 ┏-┻-┓      |
源頼朝  娘=====一条能保=====藤原有恒の娘   北条義時===伊賀の方
        |        |                |     
       一条高能     一条実雅==============娘

ちなみに、五摂家にも一条家がありますが、それとは別系統。

京都一条室町に邸宅があったことから一条を家名をしましたが、藤原頼宗の子孫です。

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