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土肥(次郎)実平(どい さねひら)
生誕不詳-1191。JR湯河原駅周辺に居館を持っていた御家人。
桓武平氏良文流 中村宗平(中村党)の次男。相模土肥氏の祖。小早川氏の祖。
JR湯河原駅は土肥氏館跡
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 9, 2021
石橋山の戦いで負けた頼朝を助けた功労者は、間違いなく土肥実平。
今、鎌倉で多くの人が楽しませてもらってるのも土肥ちゃんのおかげ。
ホンマにありがとう😊#鎌倉 #湯河原 #土肥実平 pic.twitter.com/JN83CGQ6Kv
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、阿南健治さんが演じられます。
土肥実平の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
0 | 生誕不詳 | |
安元2(1176)年 | 伊豆の狩場で行われた相撲の判定(河津祐泰vs俣野景久)で仲裁に入る | |
治承4(1180)年 | 頼朝の挙兵に、中村党を率いて参じる | |
石橋山の合戦で敗戦 土肥実平の用意で、頼朝と共に舟で真鶴から安房国へ脱出 | ||
寿永3(1184)年 | 源義仲討伐、一ノ谷の合戦に参加。吉備三国の守護。 | |
文治5(1189)年 | 奥州合戦に参加。 | |
建久元(1190)年 | 京での頼朝右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれる | |
建久2(1191)年 | 死去したとされる |
吾妻鏡から
吾妻鏡から土肥実平が分かる内容を少しピックアップしています。
どうやら、相模・伊豆界隈では、顔が広く重鎮的存在だったようですね。
土肥実平、最後の吾妻鏡登場
建久2(1191)年 7月18日
御厩の立柱上棟があり、土肥実平、岡崎義実らが差配した。
土肥実平周辺の系図
土肥実平の父は中村(平)宗平。
相模国余綾(ゆるぎ)群中村荘(現小田原市中村原、中井町中村付近)から、中村荘司と称した。
土肥氏は土屋・二宮・中村とは同族。
平常宗 ← 鎌倉景正(鎌倉党)に討たれる
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中村(荘司)宗平
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中村重平 土肥実平 土屋宗遠 岡崎義実室 伊東祐親室
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土肥遠平 熊谷直実室 佐奈田与一義忠 八重姫 河津祐泰 伊東祐清
[小早川氏]
系図を見ると、土井実平の兄弟姉妹から、甥姪には有名御家人が沢山控えていますね。
子孫は戦国大名小早川氏
源平合戦で軍功を挙げた土肥実平は、備前・備中・備後の総追捕使(守護)に任じられました。
孫の惟平(これひら)は和田合戦で衰退。
養子となって家を継いだ茂平の時代に、安芸国沼田荘に移住します。本拠は早河荘。
そこの地名「小早川」と名字としました。
土肥実平ゆかりの地
土肥実平の本拠は湯河原周辺です。
JR湯河原駅周辺の住所は「湯河原町土肥」と、土肥の名前が残っています。
JR湯河原駅(土肥氏館跡)
JR湯河原駅は土肥実平の館跡と言われているようです。
駅の前を走っている国道下は崖になっていて、駅が高台に作られていることが良く分かります。
駅には、土肥実平公夫婦の像が立っていて、30分100円(初めの15分は無料)の駐車場もあって、観光案内所にサクッと立ち寄るに便利です。
土肥実平公 並 夫人像
実平公も凄い人だけど、奥さんも「尼や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食料を運び、消息を伝えるなど・・・」頼朝の命の恩人ですね。
五所神社
JR湯河原駅から奥湯河原方面へ向かい、東海道新幹線の高架をくぐってすぐ右手にあるのが五所神社です。
境内の入口に無料の参拝者用駐車場もあります。駅から歩くと1kmほどあります。
土肥郷の総鎮守として、石橋山合戦の新発の前夜、社前で盛大な戦勝祈願の護摩をたいたと言われる場所です。
明神の楠
五所神社の前を取っている県道75線向かいに立っている大きな楠の木。
昔の神社の境内は広大と書いていて、明神の楠の南側を東西に流れる「千歳川」で禊をして、この楠の下を通って、五所神社に参拝した通りだったようです。
城願寺(土肥一族の菩提寺)
JR湯河原駅からJR東海道線の線路下をくぐってしばらく登ったところにあるお寺が城願寺です。
お寺の入口には「土肥次郎実平一族 菩提寺 萬年山 城願寺」と書かれています。
駐車場も完備されていますので、お寺まで行く道は細いけど、交通量が全然ないので大丈夫だと思います。
参道入口側(下側)は歩行者向け、車の場合は、しばらく道を進み(登り)、本堂横(上側)にある駐車場へ止めましょう。
境内はまあまあ広く、見どころが沢山あります。
土肥一族の墓所
城願寺の一番のメインはココだと思います。
本堂の左手を、墓地を中を進んだ、ちょっと高まった場所にあるのが土肥一族の墓所です。
しっかり「土肥一族の墓所」へ向かう案内板が、何ヶ所か掲示してくれているので迷うことは無いかと思います。昼までのちょっとうっすら暗くて、五輪塔、宝篋印塔の多さに圧倒されます。
中央にある五輪塔が土肥実平、その左が実平の妻。実平の右が子の遠平、その妻の供養塔と伝えられているそうです。
七騎堂
境内の参道入り口側に立っている七騎堂。
石橋山の戦いで敗北した頼朝と共に、安房へ向かう漁船に乗った主従7騎。その七騎落七武者の像を刻み、一宇の堂を建立し安置しているとか。
昭和49年に土肥会という史実研究団体による活動の一環ですね。
城願寺のビャクシン
城願寺の入口には、「鎌倉進攻への戦略を練り精兵をこの地の持仏堂に集め、手植えのビャクシン前から出陣した」とあります。
石橋山古戦場
土肥実平多くの者が石橋山で平家軍と戦いますが惨敗。
頼朝船出の浜(真鶴市)
石橋山の戦いで敗れた頼朝が、箱根山やしとどの窟などに難を逃れ、房州(千葉県)に向かって船出した場所が、真鶴にある岩海岸で、石碑が建っています。
別説には、真鶴が崎から船出。岩浦からは北条時政らが船出とも言われているそうです。
とはいえ、真鶴半島から船出したことには変わりありません。