目次
天野遠景(あまの とおかげ)
説はあるものの、生没年不詳。
天野の名前の由来は、伊豆国田方郡天野に住んでいたことによる。
執権北条氏と同じ伊豆国田方郡なので知り合いとか顔見知りとかだったことは間違いないでしょう。
天野遠景の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
永治元(1141)年 | 0 | 誕生? |
天野郷は蛭ヶ小島に近く、頼朝と親交を深める | ||
治承4(1180)年 | 頼朝の挙兵に、息子「政景」と共に参陣 | |
寿永2(1183)年 | 木曽義仲への使者を務め、嫡子「義高」の人質に成功 | |
元暦元(1184)年 | 一条忠頼(甲斐源氏)を誅殺 | |
平氏追討軍(源範頼軍)に従い豊後国へ。大功を挙げる。 | ||
文治元(1185)年 | 九州総追捕使(初代鎮西奉行)に補任 | |
建久5(1194)年 | 鎮西奉行職を解任、鎌倉へ帰還 | |
建久10(1199)年 | 頼朝死去に伴い出家「連景」と名乗る | |
梶原景時の変で連署状に名を連ねる | ||
建仁3(1203)年 | 比企能員の乱で、能員暗殺に関与 | |
天野に戻り、死去 |
吾妻鏡には、天野藤内、天野民部丞遠景、天野民部入道蓮景、等の名称で登場します。
吾妻鏡には・・・
平家追討で大功を挙げた天野遠景は、鎮西奉行に任命され、九州で10年間ほど過ごします。
鎮西奉行に任命される
文治2(1186)年 12月10日
藤原(天野)遠景が鎮西九国の奉行人となり、所々の地頭職を賜る。
※鎮西奉行は、後に蒙古襲来に備える為に設置した「鎮西探題」の前身です。
晩年は困窮した?
頼朝が亡くなってからは、源平合戦等で活躍した天野遠景も生活に困窮していたようです。
そして、この記事を最後に天野遠景は吾妻鏡から姿を消します。亡くなったのでしょう。
承元元(1207)年 6月2日
天野民部入道蓮景は、恩賞を望んだ嘆願書を、北条義時に進上した。
治承4年8月の山木合戦からの度重なる勲功を挙げて、11箇条の思い出が記されていた。
大江広元が源実朝に取り次いだ。
岡崎義実もそうですが、亡くなる直前に相続の事などを考えて、晩年は恩賞が欲しくなるのでしょうね。
天野遠景周辺の系図
有力御家人たちと婚姻関係も結ばす(娘がいなくて結べず?)、シンプルな系図です。
藤原南家工藤氏
|
藤原景光
├-----------------┐
天野遠景===狩野(工藤)茂光 娘 光家
|
天野政景
ただ、子孫は遠江守護になった今川氏と繋がりをもちました。
天野氏ゆかりの地
現 伊豆の国市天野
天野は北条の里(現伊豆の国市寺家)、江間の南側に位置しています。
離れている距離も2kmほどなので、昔から北条氏とはご近所づきあいしてたのではないでしょうか。
天野遠景の墓
リバーサイドパークの近く山側にある天野遠景の墓。
左が「政景(子)」、中央が「遠景」、右が「光家(弟)」と伝わっているそうです。
このお墓がある場所は「薬師の段」と呼ばれるところだそうで、天野遠景が建立した薬師堂(真言宗)があった見たみたいです(東昌寺の説明板より)
東昌寺(遠景公位牌安置所)
天野遠景の墓から北へ約300mいった場所にある東昌寺。
薬師堂には、天野遠景が崇拝した「薬師腹籠」が安置されています。
遠景は、西国での平家討伐の際に、流れ矢を受けて傷に苦しんだときに、聖徳太子作と言われるこの像を僧から贈られたようで、それ以降大切に安置していると。