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證菩提寺
證菩提寺(しょうぼだいじ)は横浜市栄区上郷町にある寺院。高野山真言宗。
佐奈田与一義忠の菩提を弔う為に、源頼朝によって1189年(文治5年)に創建された。
本尊は「木像阿弥陀如来坐像」(寄木造)
※鎌倉時代作 県指定重要文化財(昭和39年12月15日)

横浜市栄区上郷町にある證菩提寺は、鎌倉から見て北東に当たるので、忠義の佐奈田与一義忠を祀って供養すれば、鬼門除けとして幕府鎮護になるというのが、建立場所の理由という。
證菩提寺の場所
最寄りの公共交通機関はバス。「稲荷森」バス停、徒歩数分。
JR大船駅、港南台駅から出ています。
当時の證菩提寺の規模
寺の規模は、地図で表してみると縦長で広大な境内です。
東:坂中(山手学院入口)、小槻峰(尾月町)
西:辺渕橋(稲荷橋)
南:矢沢木戸口(フローラ桂台)
北:竹後大道(元大橋)

寺(号)の変遷
無量寿(阿弥陀の漢訳)
始めは、阿弥陀堂が中心で、大日堂・中房・慈台房・実応房・智台房など七堂を配した幕府鎮護の大寺だったそう。阿弥陀の漢訳の無量寿が寺号に
證菩提(岡崎義実の法名)
1200年に佐奈田与一の父「岡崎四郎義実」が無くなると、これを大日堂に祭り岡崎堂と呼び、それが次第に寺の中心となった。そのため、義実の法名「證菩提」が寺号に
新阿弥陀堂建立(北条政子追善)
源頼朝の死後は、寺は次第に衰退。北条政子の死後はさらに荒廃。
三代執権「北条泰時」の娘「小菅ヶ谷殿」(栄区小菅ヶ谷に屋敷があった|現、JR本郷台駅周辺)が施主となって、1236年(嘉禎2年)に本郷新阿弥陀堂が建立供養された。

佐奈田与一義忠(さなだ よしただ)
1155-1180。平塚市真田に住んだ武将。
岡崎義実(おかざき よしざね)の嫡男。岡崎義実は三浦義明の弟なので、三浦一族の庶流に入る。
三浦義継 - 三浦義明(1092-1180) - 三浦義澄(1127-1200) - 三浦義村(11??-1239)
- 岡崎義実(1112-1200) - 佐奈田義忠(1155-1180) - 岡崎実忠
1180年、石橋山で挙兵した源頼朝。
頼朝方は300騎、対する平家方の大庭景親、俣野景久等の3,000騎と戦って敗北。
この時、25才だった佐奈田義忠は、山中の暗闇の中で俣野景久と一騎打ちをして戦死(首を討ったのは、平家方の長尾定景)。頼朝はその間に闇に紛れて戦場を離れ、真鶴から上総に逃れた。
義朝の身代わりになって戦死した佐奈田与一の忠義に報い、追善供養のためにこの寺の建立を発願した。

源頼朝が建立ということもあって、寺紋のササリンドウ(笹竜胆)が輝いています。
今日の朝活は鎌倉を越境して栄区上郷町にある証菩提寺へ、と、遠い😅
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) June 23, 2021
佐奈田与一の菩提を弔うため頼朝建立。笹竜胆あり、説明板面白い。
ココは鎌倉の鬼門の方向。
先日から読んでる「三浦一族の中世」に載ってました。即、訪問です🏃♂️#三浦一族 #朝活 #栄区 #源頼朝 https://t.co/89TaTamiqS pic.twitter.com/m9u7jt9iU8
本堂の横にある、建物の右側にも説明板が設置してありました。
お寺の簡単な建立理由と、本尊・客仏等、寺宝について、最後に、本堂裏に佐奈田義忠の父「岡崎義実」の墓があると書いてあるので行ってみることにします。

岡崎義実
1112-1200。三浦氏の庶家・岡崎氏の祖。
平塚市岡崎、伊勢原市岡崎にあたる地域を領した。
嫡男「義忠」は、平塚市真田にちなんで「佐奈田」を称する
次男「義清」は、土屋宗遠(母方の叔父)の養子となって「土屋氏」と称した
平家追討、奥州合戦、など鎌倉幕府の功労者で89才まで生きながら、晩年は困窮し不遇だったよう。
義忠の嫡男「実忠」が岡崎氏の後を継いだが、和田合戦では和田方に加勢し討ち死に。岡崎氏は滅亡。
伝 岡崎四郎義実の墓
本堂右手奥側にコンクリート造りの階段があってそれを登っていくと、岡崎義実の墓と思われる小さい建物が置かれていました。卒塔婆にも岡崎四郎義実の文字が書かれています。
ちなみに、本拠を置いた平塚市岡崎周辺(岡崎城址)にも岡崎義実の墓があります。

参考図書
證菩提寺の存在は、下記書籍にて知りました。
三浦一族について詳しく知りたい方には役に立つのではないかなと思います。