今回は、若宮大路を滑川交差点に向かって進んだ場所(一の鳥居付近)にある「畠山重保邸阯」の石碑を読んでみることにしました。
鶴岡八幡宮の近くには、父の「畠山重忠」に関する石碑もあります。
親子2代に渡り、この旧石碑が造られた人物って居ないんじゃないのかな?
目次
畠山重保邸阯

「畠山重保邸阯」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ甞テ北條時政ノ婿平賀朝雅ト忿爭ス
朝雅其ノ餘怨ヲ蓄エ重保父子ヲ時政ニ讒ス
時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス
乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム重保奮闘之ニ死ス時ニ元久二年六月二十ニ日此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
其ノ翌重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
畠山重保は重忠の嫡男だが、以前、北条時政の婿「平賀朝雅」と言い争いとなった。その恨みを持ち続け、重保父子を時政に陰口を言った。時政も、頼朝の死後、遺言によって重忠が頼家を保護するのを恨んでいて、何かあれば重忠を殺そうと思っていた。そこで実朝の命令があり兵を派遣して重保の家を囲み、重保は奮闘するも1205年(元久2年)6月22日亡くなりました。この場所はその屋敷跡です。その次の日、重忠も騙し誘われて、武蔵国の二俣川にて討ち死にした。
大正10年3月建立 鎌倉町青年団
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
甞:ショウ:①かつて、以前 ②こころみる ③なめる
忿:フン :①いかる、おこる、いきどおる
餘:現在の「余」:①あまる ②われ、自分
讒:サン :①陰口を言って人を陥れる ②へつらう
薨:コウ :①みまかる、貴人が死ぬ
圍:現在の「囲」:①かこむ ②まわり ③区切り、境界
亦:また :①また
事前知識(歴史編)
元久二年
1205年。げんきゅうは1204年~1206年
前元号は「建仁(けんにん)」、次元号は「建永(けんえい)」
畠山重忠の乱(1205年7月10日)
畠山重忠の乱は、北条時政の謀により畠山氏討伐が行われた争い。(鎌倉幕府の内乱)
登場人物
<敗死側> 畠山重忠(40)、畠山重保(20頃?)
<追討側> 北条時政(66)、北条義時(41)、平賀朝雅(40頃?)、
※(数字)は、1205年時点の年齢。ですけど、生誕日不明の人が多く推測ばかり・・・。
畠山重忠は秩父党の武士。高潔で勇敢な性格、坂東武士の鑑といわれて慕われた人物ですね。
※秩父市の本屋さんで「畠山重忠」の本が沢山並んでました。地元の誇りかも。
年齢では、畠山重忠と北条義時は、ほぼ同期。
両人とも源頼朝から目を掛けられてた優れた人物同士。仲良かったのかもしれません。
畠山重忠の乱が起った背景
石碑には、畠山重保と平賀朝雅が言い争いをした。と書かれています。
吾妻鏡での詳細は下記の通り
源実朝の嫁迎えのために鎌倉から若手の美男15人を選び京へ進発。その中に「畠山重保」もいた。
京では、京都守護だった「平賀朝雅」邸で夜、酒宴が行われた。その場所での言い争いだそう。
その場では結城朝光(37歳頃|尊敬する人:畠山重忠)が重保に対して「先輩を立ててそのぐらいにせよ」と仲裁。朝雅の方が重保より15歳程度年上だと思われますが、年下に喧嘩売られたら根に持ちますわな(汗)
牧氏事件
その後、重忠と重保は謀反の気持ちなど無かったと北条義時は思い、父時政の策略だったと確信。

その後に、北条時政と後妻「牧の方」が、源実朝を廃して「平賀朝雅」を将軍に擁立しようとしたことが発覚して、政子と義時が、時政と牧の方を伊豆に追放。
平賀朝雅は、北条義時の命で京都で殺害された。
平賀朝雅は、時の「後鳥羽上皇」と親しかったようです。承久の乱の火だねが見えますね・・・。
三管領家の畠山氏へ
室町時代には、三管領家として細川氏、斯波氏、畠山氏がいますが、この畠山氏から来ているようですね!
畠山氏は、平安時代後期~鎌倉時代前期に武蔵国で勢力を張った豪族で秩父氏の一族(秩父党)
その最盛期を築いたのが「畠山重忠」です。
畠山重忠の乱で畠山氏の嫡流は滅亡してますが、畠山重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻した「足利義純」が、重忠の旧領と名跡を継承したとあります。
足利義純は足利一族の武将なので、源氏一族となりますし、足利将軍に近い血筋も持つことになりますね。
優秀な畠山氏が、失脚した時政の謀によって、鎌倉時代の早々に姿を消すことになるとは。勿体ないですね。