鎌倉を歩いていると、それほど有名じゃないけど、名前が刻まれている人がいます。
そんな人物にもちょっと光を当ててみたいと思って、このページを作成しました。
目次
鎌倉武士(マイナー人物編)
相馬師常(そうまもろつね)
1139~1205年(66才?)。源頼朝の家臣。千葉氏の庶家(本家より分かれた一族)。千葉常胤の子。頼朝より8才年上。
相馬氏初代当主。家紋は九曜。
鎌倉市扇ガ谷に相馬師常の墓とされるやぐらがあります。
八坂大神
自邸に牛頭天王を勧請して「相馬天王」とも言う。扇ヶ谷の鎮守。神仏分離で八坂大神と改称。
工藤祐経(くどうすけつね)
1147?~1193年(46才?)。鎌倉御家人。藤原南家の流れをくむ。源頼朝と同い年。
曽我兄弟に父の仇として討たれた武将。
曽我兄弟の仇討ち
曽我兄弟の仇討ちは、赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ちと並んで、日本三大仇討ちの一つ。
工藤祐経は、叔父の伊東祐親(いとうすけちか)に所領問題で恨んでいて、手下を使って殺そうとしたが祐親の嫡男を殺してしまった。
その嫡男の子供が曽我兄弟。1176年の事。
その間もいろいろあって。。。
1193年に富士の裾野で大規模な巻狩をしたときに、工藤祐経の寝床に押し入って討ち果たしたというお話。
能や浄瑠璃、歌舞伎などの作品に使われ人気を博したようです。
實相寺(材木座)
材木座にある實相寺は工藤祐経の屋敷跡って言われてます。日蓮宗。開山は日昭(日蓮六老僧の一人)
日昭のお母さんは祐経の娘という繋がり。 系図では、『 工藤祐経-娘-日昭 』 ですね。
朝比奈三郎義秀
1176~死没不明。和田義盛の子として誕生。
1213年の和田合戦で、2代執権北条義時率いる鎌倉幕府軍に対し最も活躍したのがこの義秀。豪傑で有名。
弟が討ち取られ、父も討ち取られた中、義秀は死なずに船で所領の安房へ脱出したが、その後の消息は不明。
和田義盛
1147~1213年(約66才)。御家人、初代侍所別当。三浦氏の支族。
三浦義明の子供、杉本義宗の子として誕生。安房国和田御厨(みくりや)に領地があったので和田を名乗った。
平家追討や奥州合戦で武功を立て、1199年梶原景時の変、1203年比企能員の変、1205年畠山重忠の乱では北条氏に付いた。
1213年 和田合戦で死亡。
朝夷奈切通
この朝夷奈切通は朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたものという伝説。朝夷奈の名前はココから。
宿谷光則(やどやみつのり)
生誕、死没不明。が、5代執権北条時頼の最後の看病を許された7人の内の1人。
北条氏得宗家の御内人。(御家人ではない)
寺社奉行だったので、日蓮の「立正安国論」を北条時頼に渡す仲介役となった。
ほかにも、日蓮から北条時宗に手紙を渡してくれーと依頼してきたのも、この宿谷光則だったと。
光則寺(鎌倉市長谷)
1271年に日蓮が捕まった時に、日朗、四条金吾(下記)の身柄を預かり、自宅の屋敷の裏山に幽閉した。
それが、光則寺の奥にある日郎の土の牢。
そう、宿谷光則の自宅跡が光則寺。寺名から分かりますけどね(笑)
日蓮と関わっていくうちに、深く帰依するようになり、自宅を寄進し、日朗と開山として建立。日朗は日蓮六老僧の一人。
青砥藤綱(あおとふじつな)
生没年不詳。だが、5代執権北条時頼に仕え、時宗、貞時の時代にいた武士と太平記では記している。
東勝寺橋での銭拾い伝説が有名。
10文落とした藤綱が、家来に50文の松明を買ってきて探させた。
40文損してるよねと同僚に笑われるが、永遠に使われない10文より50文使えば町民や商家も利益を得らえれると。
青砥橋
青砥藤綱の自宅は、金沢街道にある「青砥橋」バス停の近く。青砥は青砥藤綱繋がりだと思われます。
四条金吾(しじょうきんご)
1229~1296年(約67才)。武士。日蓮宗の有力檀那(聖人四大檀越の一人)。
1253年から日蓮に深く帰依して、1271年の龍ノ口法難では日蓮に殉死しようとしたようです。
※檀越(だんおつ|寺や層に布施をする信者。檀家。)
承久の乱後から、父の代から北条一族の名越光時(江間光時)の家臣。江間光時は北条義時の孫。
収玄寺(鎌倉市長谷)
日蓮宗。四条金吾の屋敷跡に建っています。
境内には東郷平八郎(連合艦隊司令長官)が書いた「四条金吾邸址」の石碑がありますが、彼も日蓮宗の信者だそうですよ。
千葉胤貞(ちばたねさだ)
1288~1336年(約48才)。有力御家人の千葉常胤の子孫。
親分は9代執権の北条貞時で、貞という文字を頂いているという繋がり。日蓮宗に帰依。
千葉常胤
1118~1201年(83才頃)千葉氏を豪族から御家人の地位まで上げた千葉氏の中興の祖。
千葉氏は桓武平氏良文流千葉氏の一族。
1156年保元の乱では、頼朝の父、源義朝指揮下で戦った。ここから源氏との繋がりがあるんですね。
なので、源義朝が当時住んでた鎌倉の寿福寺も知ってたはずで、源頼朝に鎌倉へ行けとアドバイスしたのもこの千葉常胤です。
源頼朝より30近くも年上で、鎌倉入りの時は若い畠山重忠が先頭を、長老の千葉常胤が最後尾を務めたと。
妙隆寺(小町)
小町大路沿いにある妙隆寺。日蓮宗のお寺で、京都の本法寺を開いた、妙隆寺2世の鍋かむり日親で有名です。別名、千葉屋敷。鎌倉江の島七福神の寿老人が安置されてます。
こうやってみると日蓮宗に帰依した鎌倉御家人や武将が多いことが分かりますね。
日蓮さん。ますます気になる人物です。