今回は甘縄神明神社の入口に置かれている「安達盛長邸」の石碑を読んでみました。
安達一族の初期から後半まで軽く触れてくれているので、これをきっかけに深堀するのも面白いと思います。
目次
安達盛長邸址
「安達盛長邸址」石碑の場所は?
石碑に書かれている文字は?
盛長ハ藤九郎ト偁ス
初メ頼朝ノ蛭ガ島ニ在ルヤ克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク石橋山ノ一戦源家ガト運ノ骰子ハ全ク黯黮タル前途ヲ示シヌ盛長頼朝ニ尾シ扁舟濤ヲ凌イデ安房ニ逃レ此處ニ散兵ヲ萃メテ挽回ヲ策ス
白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ビ其ノ旧勲ニ依ツテ頗ル重用セラル
子弥九郎盛景孫秋田城介義景邸ヲ襲グ頼朝以来将軍ノ来臨屢々アリ
此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團
安達盛長は藤九郎と言った。
当初、源頼朝が蛭が島にいた時、十分に力を合わせてその計画(挙兵)を助けた。
石橋山の一線で源氏が敗北し、先が見えない状況になったが、盛長は頼朝と共に、小さな舟で大きな波をしのぎ、安房国へ逃げ、ここで兵を集め再起の作戦を練った。
源氏の白旗が鎌倉に戻り、天下を治めると盛長は昔からの勲功によって非常に重用された。
安達盛長の子「弥九郎景盛」、孫の「秋田城介義景」も代々この家に住んでいた。
頼朝以降、将軍がこの館に度々訪れた。
此の地がその邸跡である。
大正14年3月建 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
克:コク、かつ|がんばって打ち勝つ、十分に
勠:リク、あわ|力を合わせる
資:シ、たす(ける)|たから、もとで、たすける、生まれつき
骰子:さい|さいころ、采配の略
黯黮:アンタン|将来の見通しが立たず、全く希望が持てないさま
扁舟:ヘンシュウ|小さな舟
濤:トウ|大きくうねる波
萃:スイ、あつまる|あつまる
風靡:フウビ|多くの者をなびき従わせること
頗:ハ|すこぶる、非常に
屢々:しばしば、しょっちゅう
事前知識(歴史編)
安達盛長
1135-1200年。御家人。安達氏の祖。源頼朝の流人時代(伊豆蛭が島)からの側近。
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、安達盛長を演じるのは「野添義弘」さんです
石橋山の合戦
石橋山の戦いとは、1180年(治承4年)現在の小田原市石橋山で行われた、平家(大庭景親等)vs源氏(源頼朝軍)の戦い。その時は、源氏側が大敗し安房国へ落ち延びますが、そこから大逆転劇の幕開けです。
安達盛景(安達景盛)
生誕?-1248年。盛長の嫡男。御家人。
実朝・政子の信頼が厚く、1205年。畠山重忠の乱では旧友の重忠の討伐で先陣を切る。実朝が暗殺され出家。
安達義景(秋田城介)
1210-1253年。景盛の嫡男。御家人。子に覚山尼。
名前の「義」は北条義時からの拝領?
安達一族
鎌倉時代に入ると、執権北条氏によって次々と御家人が滅ぼされていく中、安達一族は執権北条氏と親戚関係になるなどして、後半まで隆盛を誇っていました。
なんたって、8代執権「北条時宗」の正室で東慶寺開山の「覚山尼」は安達泰盛の妹ですからね!
ライバルは三浦一族
1247年に起った宝治合戦は、「三浦一族 vs 安達一族」と言っても過言ではない戦乱。
三浦半島を治めていた名門三浦一族を退けてしまうのですら大したものですね。
甘縄神明神社
安達盛長邸の石碑が置かれている場所は甘縄神明神社の目の前です。
甘縄神明神社は、鎌倉時代よりもずっと昔からその地にある、歴史の深い神社です。