二十五坊|鶴岡八幡宮の奥深く、古都保存法のきっかけとなった場所(石碑を読む)

二十五坊|鶴岡八幡宮の奥深く、古都保存法のきっかけとなった場所(石碑を読む)

2020-08-27

今回は北鎌倉方面から鶴岡八幡宮へ向かう途中(巨福呂坂の終点近く)に置いてある「二十五坊」の石碑を読んでみました。っていうか、汚れまくっていて読めませんけど・・・。

他の石碑でもここまで酷いのは「松谷寺及び佐介文庫阯」以来だな。

二十五坊旧蹟

二十五坊

「二十五坊旧蹟」石碑の場所は?

石碑に書かれている文字は?

此ノ地ハ頼朝時代以来八幡宮ノ僧舎二十五坊及ビ別當坊ノ置カレシ處ナリ
彼ノ別当公暁ガ実朝ノ首ヲ手ニシテ潜ミタル後見備中阿闍梨ノ宅モ亦此ノ地ニ在リタルナリ
応永中院宣ニヨリ坊ノ偁ヲ院ト改ム
戦國ノ世ニ至リ鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ廃絶シ天正ノ末ニ於テハ僅ニ七院ヲ存セルノミ
文禄中徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ明治維新後遂ニ全ク廃墟トナ

大正七年三月建之 鎌倉町青年會

この場所は源頼朝以来、八幡宮の僧舎二十五坊と別当坊が建てられていた場所である
当時別当だった公暁源実朝の首を手にもって隠れた場所であり、備中阿闍梨の家もまたこの辺にある
応永年間中に院宣によって坊から院へを改称された
戦国の世となり、鎌倉管領の勢力が弱まるとともに、各院も次第に廃絶していき、天正時代末にはわずかに7院が存在するのみとなった。
文禄時代には、徳川家康が5院を再興して12院となったが、明治維新後には遂に廃墟となった

大正7年3月建之 鎌倉町青年会

事前知識(漢字・用語編)

※今回は難しい漢字等はありませんでした。

事前知識(歴史編)

別当

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公暁

1200-1219年。僧侶。2代将軍源頼家の次男。
3代将軍源実朝を父の敵として、鶴岡八幡宮で暗殺。自身もその後討ち取られる。

乳母父が三浦義村だったこともあり、三浦黒幕説(円環|永井路子著)も。

備中阿闍梨

公暁の後見者。
阿闍梨とは弟子たちの規範となり法を教授する僧侶。

応永

1394-1428年。おうえい。室町幕府、3代将軍「義満」~5代将軍「義量」の時代。
上杉禅秀の乱は応永23年。

天正

1573-1593年。てんしょう。正親町、後陽成天皇。15代将軍「足利義昭」の時代。
天正10年(1582年)本能寺の変&天正遣欧少年使節の4人が長崎を出発

文禄

1593-1596年。ぶんろく。後陽成天皇、将軍不在。
文禄元年に文禄の役(唐入り)、2度めは慶長の役。慶長は文禄の次の元号。

御谷騒動

御谷(おやつ)っていうのは、鎌倉で良くある谷の一つですね。

昔は二十五の僧坊が建っていたと思われる平場が広がっています。
メイン通りからちょっと細い道を入った場所なので、目的をもっていかないとたどり着けません。

昭和に入って、この貴重な遺跡に住宅開発の計画が持ち上がって、鎌倉風致保存会がこの緑地を買い取った出来事を、日本初の「ナショナルトラスト運動」読んでいます。

この「御谷騒動」は「古都保存法」の制定が実現するきっかけになった、ちょっとした分岐点だったんですね。

今もありますよ「公益財団法人 鎌倉風致保存会
十二所果樹園は現在、ココが管理してますね。

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