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三浦胤義(みうら たねよし)
生誕不詳-1221 三浦義澄の末子(9男)、三浦義村は兄
鎌倉幕府の御家人だが、承久の乱では後鳥羽上皇方(京方)に与し、鎌倉幕府軍と戦い敗れ、自害した。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、三浦胤義役を「岸田タツヤ」さんが演じられます。
三浦胤義の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生誕不詳 | 0 | 誕生(父:三浦義澄) |
元久2(1205)年 | 畠山重忠の乱 兄の三浦義村と鎌倉幕府軍として出陣 | |
建暦3(1213)年 | 和田合戦 兄の三浦義村と行動を共にし功を挙げる | |
建保6(1218)年 | 源実朝の左大臣拝賀に参列 | |
承久3(1221)年 | 承久の乱 藤原秀康からの説得を受け、京方として鎌倉幕府軍と戦う | |
京都(西山木島)にて自害 |
吾妻鏡より
胤義、兄義村の調略に失敗
計算高い兄義村は、朝廷からの美味しい話には乗ってくるはずだと、気楽に考えていた節のある胤義の願いもむなしく、この時点で負けが決まったような感じになりました。
承久3(1221)年 5月19日
三浦胤義の私的な書状が、三浦義村(兄)のもとに到着。
「勅命に応じて北条義時(右京兆)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りにする」と命じられました。と書かれていた。
三浦義村は返事をせずに、その使者を追い返し、書状を持って北条義時のもとに赴き「義村は弟の謀反には同心せず、味方として並びない忠節を尽くします」と。
北条政子の演説
承久の乱で御家人の気持ちを奮い立たせた有名な北条政子の演説ですが、ここで、三浦胤義は京方(謀反人)の中心人物として名前を挙げられています。
同日
北条政子は御家人らを御簾の側に招き、安達景盛を介してよくよく指示して行った。
「故右大将軍(源頼朝)が朝敵を征伐し関東を創設、官位・俸禄など、その恩はすでに山よりも高く、海よりも深い。恩に報いる思いが浅いはずはないであろう。今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむものは、速やかに藤原秀康・三浦胤義らを打ちとり、三代にわたる将軍の遺跡を守るように。
三浦胤義自害
宇治・瀬田の合戦で鎌倉幕府軍に敗れた京方は、後鳥羽上皇に奏上。
後鳥羽上皇は「この戦いは、謀臣らが行ったものではなく自分の意志ではない」と院宣を泰時に送り、部下を裏切ったため、藤原秀康、三浦胤義は逃げざるを得なくなりました。
同年 6月15日
三浦胤義は当時の門内に立て籠っていたが、東国武士が次第に入京。三浦胤義と三浦・佐原の者と合戦が行われ両方の郎従が多く戦死した。
申の刻に胤義父子が西山の木島で自殺、胤義の郎従がその首を取って太秦の宅に持っていくと、三浦義村はそれを探し出して北条泰時の館に送った。
三浦胤義周辺の系図1
三浦胤義は三浦一族の一人です。
宗家の流れを汲む「三浦義澄」の末子なので庶流ですが、承久の乱までは兄義村と、三浦一族・鎌倉幕府の為に戦ってきました。
三浦義明
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杉本義宗 三浦義澄===伊藤祐親娘 佐原義連
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和田義盛 三浦義村 三浦胤義
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和田常盛 三浦泰村 娘===北条政村
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和田朝盛
三浦胤義周辺の系図2
三浦胤義の妻(良寛の娘)は源頼家(鎌倉幕府2代将軍)の側室でした。
※良寛:源頼朝の右筆で僧侶
頼家・禅暁を北条氏に殺され嘆き悲しむ妻の為に、鎌倉幕府に謀反を起こそうと京に上り、承久の乱では京方に与したとも言われています。
三浦胤義===妻(良寛の娘)===源頼家
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栄実 禅暁
三浦胤義ゆかりの地
三浦胤義遺孤碑(逗子市)
三浦胤義が承久の乱で京方に付いたため、鎌倉幕府は大矢部の祖母の元にいた胤義の5人の子供を差し出すように要求。祖母の必死の抵抗もむなしく、年長の豊王丸を残して4人の子供は捕らえられ、田越川の河原で斬られました。
その後、北条泰時と三浦義村がこの地を訪れて石塔を立てて弔った場所と伝わります。
亀井地蔵尊(逗子市)
鎌倉時代には処刑所だった田越河原。
ここでは、三浦胤義の遺児や六代御前も首を斬られた場所です。そこに祀られたのが亀井地蔵尊だそう。
東寺(京都市南区)
後鳥羽上皇に裏切られた三浦胤義は、東寺に立て籠って鎌倉幕府軍と応戦。
その時に、兄の三浦義村と話をしたが「アホと話すことはない」と全く相手にしてもらえなかったという。
木嶋坐天照御魂神社(右京区太秦)
三浦胤義とその子息(胤連、兼義)が自害したとされる場所、西山の木嶋。この辺に住んでいたようです。
今は神社(京都市右京区太秦)が建っています。
蚕ノ社での名称が有名。木島神社とも。