若宮大路幕府|約100年、鎌倉幕府終焉まで見届けた幕府跡(石碑を読む)

若宮大路幕府|約100年、鎌倉幕府終焉まで見届けた幕府跡(石碑を読む)

2020-06-26

今回は若宮大路幕府の石碑を読んでみました。
幕府の石碑は、大蔵宇津宮辻、若宮大路と3つありますから、連続性を把握して読みたいですね。

なかでも、幕府設置の期間が一番長かったのが、今回の若宮大路幕府。
六代将軍「宗尊親王」の時は、この場所で和歌会とか頻繁に開かれたんでしょうか。

若宮大路幕府旧跡

若宮大路幕府旧跡

「若宮大路幕府旧跡」石碑の場所

住宅街の結構入り組んだ場所にあります・・・。
今や、こんなところに幕府があったような痕跡すらありません。

石碑に書かれている文字は?

鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシカ嘉禄元年政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇津宮辻ニ遷シ後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此ノ地ニ遷ス
爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍相継ギテ政ヲ此ニケリ
元弘三年新田義貞ノ鎌倉ニ入スルニ及ヒテ廃絶セリ

大正七年三月建之 鎌倉町青年會

鎌倉の幕府は当初、大蔵にあったが、1225年(嘉禄元年)北条政子が死去すると、第4代将軍「藤原頼経」の時に幕府を宇津宮辻に遷した。それから十一年経過した1236年(嘉禎2年)に再び幕府をココに遷した。
それ以来98年間、藤原頼経以降6代の将軍は相次いで政治をココで行ったと聞く。
1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めによって廃絶した。

大正7年3月建之 鎌倉町青年会

※間違っていたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

爾来:じらい|それ以来
:現在の「聴」
:現在の「乱」

事前知識(歴史編)

藤原頼経

1218-1256年。鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家将軍。九条頼経
幼名の「三寅」は、生まれたのが、寅年、寅月、寅刻だったとか。なんという奇跡!

藤原頼経(三寅)|初の摂家将軍、2歳で下向した鎌倉幕府第4代征夷大将軍
藤原頼経(ふじわらのよりつね) 1218-1256。摂関家、藤原(九条)道家の三男。幼名は三寅。九条頼経とも。 第3代将軍「源実朝」が甥の公暁に暗殺されたため、…
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嘉禄元年

1225年。かろく。1225-1227年。後堀河天皇。将軍は藤原頼経。執権は北条泰時

嘉禎二年

1236年。かてい。1235-1238年。四条天皇。将軍は藤原頼経。執権は北条泰時

鎌倉幕府 場所の変遷

約145年続いた鎌倉時代の中で、将軍邸の御所は3回場所が変わりました。

大蔵幕府

1180-1225年。46年間。源氏将軍(頼朝・頼家実朝)の邸宅

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宇津宮辻幕府

1225-1236年。11年間。4代将軍「藤原頼経(摂家将軍)」の邸宅。

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若宮大路幕府

1236-1333年。98年間。4代将軍「藤原頼経(摂家将軍)」以降、9代将軍「守邦親王」までのすべての将軍。

源氏が途絶えた3代将軍以降は、執権北条氏が将軍を傀儡として匿うために、また、他の御家人たちと手を組まない様に、北条氏の館が多く有った若宮大路沿いに幕府を構えることになったと思われます。

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