福原京(兵庫県神戸市)|わずか半年で終焉。平清盛が平安京から遷都した幻の都

福原京(兵庫県神戸市)|わずか半年で終焉。平清盛が平安京から遷都した幻の都

2022-01-18

福原遷都

福原遷都については、平家物語 巻第5 遷都~都帰、に元ネタがあります。

福原遷都への背景

鹿ヶ谷の陰謀が露見し、院近臣の排除を図った清盛。
治承3(1179)年 7月に、長男の重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛の知行国「越前国」を没収。

怒った清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する(治承3年の政変)

平氏の独裁に反抗したのが後白河法皇の第三皇子「以仁王」、源頼政と一緒に、治承4(1180)年4月に挙兵し、全国の源氏に対し令旨が伝えられた。

治承4(1180)年 6月 3日

平清盛は、以仁王の乱を鎮圧し、園城寺を焼討した後、京や南都の寺社勢力と後白河法皇派の貴族の動きを警戒し、平家の体制を固める為に福原への遷都を決定した。

平清盛簡易年表(平清盛モニュメント横)

福原京時代の出来事

治承4(1180)年8月17日

その後、源頼朝が伊豆で挙兵。
清盛は、平維盛(重盛嫡男)を総大将として頼朝追討のために福原を出発。

治承4(1180)年10月20日

平家方は富士川の前に陣をはり、富士川の戦いが勃発。水鳥に驚いた平家軍は、一度も戦わずして京へ逃げ帰った。

富士川の戦い|水鳥に驚いた平家軍が一戦も交えず敗退。源平合戦の一つ。
富士川の戦い概要(吾妻鏡より) https://twitter.com/KagolaboJp/status/1455664951796719618 頼朝、甲斐源…
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福原京の終焉とその後

治承4(1180)年 11月 23日

比叡山の使者が福原に訪れ、平清盛に平安京への還都を依頼。
以仁王の謀反に加担し平家方に反抗的な興福寺を比叡山が鎮めるということを約束させ還都した。

しかし、興福寺側は平家に対して蜂起。
怒った平清盛は重衡(清盛5男)に命じて南都への出兵を命じ、南都焼討事件が起こってしまう。

福原京ゆかりの史跡マップ

福原京跡周辺にある史跡巡りの中心地となり得るのが、「新開地」「高速神戸」「湊川」駅です。
六甲山(北側)に行くにつれて登り坂になりますので、路線バスなどを駆使して巡るのが便利です。

車でも行けますが、小さい史跡には駐車場がない場所も多く、交通量も多く、道が細い箇所も多々ありますので注意が必要です。

雪見御所跡

雪見御所は、平清盛が福原の地に持っていた邸宅の一つ。
現在も、兵庫区雪御所町があり、その付近に存在した可能性が高いとされています。

雪見御所跡は石碑と説明板が建っています。
目の前の道路は2車線(片側一車線)の「山麓線」で、すぐそこに六甲山が迫ります。

祇園神社

福原京の関連史跡の中でも、一番六甲山側にあるといってもいい「祇園神社」
平野の祇園さんということで、平清盛ゆかりの地と歌っています。

説明板には、播州広峰神社(牛頭天王の総本宮)から京都八坂神社へ分霊をうつす途中、その神輿がここに一泊したと。

近くに天王川、天王谷、天王谷ICなどの地名はココから来てるんですね!

長い石段を登った上にある境内からは、神戸の港方面の景色が見られます。
(ビルが多くて海は見れませんが・・・)

平清盛之像

平野の近くには平清盛像が2体ありますが、その一帯。
兵庫区にある山麓線と有馬街道が交差する大きな「平野交差点」の南東側に建っています。

若き日の清盛像ですね。

この平野交差点付近には、平清盛を盛り上げようといろんな清盛看板が設置されています。

「平野」という地名は「平」家の本拠があった「フィールド(野)」を示しているそう。

平清盛モニュメント

こちらは、上述の平野交差点から有馬街道を南下した「平野バス停」に設置されている入道姿の清盛像です。
その近くには、平清盛に関する簡易年表が設置しています。

有馬街道沿いの商店街に設置されていた、きよもん。清盛ゆかりの地アピールでしょうか。

塞神の碑(さえのかみ)

江戸時代末期に「塞神」を祀った祠があり、それ所縁の碑だそうですが、ここの説明板に福原京の事について記載があります。

祇園遺跡

ココ平野の地が福原京の中心地域。1994年の発掘調査で貴族の邸宅の庭園、宋からの輸入陶磁器、大量の土器などが見つかり、貴族の生活が伺えるとのこと。

平家一門だけでなく、多くの貴族たちも福原京に遷都したようです。
なぜなら、平安京に残る貴族たちは反平家として静粛の大将だったから。

願成寺

この福原京には平清盛だけじゃなくて、当然、平家一門の家も沢山あったと思われます。
雪見御所の横には、宗盛(清盛3男)の家があったとも伝わっています。

そんな、平家ゆかりの福原京にあるお寺「願成寺」には、平家一門のお墓がありました。

平通盛

1153-1184。平教盛(清盛弟)の嫡男。
一ノ谷の戦いで、湊川あたりで源氏方に討たれた(享年32)

一ノ谷の戦いの前に、沖合いの平氏の船団から妻を呼び寄せ最後の名残を惜しんでいたが、弟の教経から「そのような心がけでは、合戦の役には立ちませんよ」とたしなめられてようやく船へ帰した。

小宰相はその時、妊娠していた。

小宰相局

平通盛の側室。
屋島へ向かう平家の船団の中で、一ノ谷の戦いでの夫の死を聞き、嘆き悲しみ、屋島への帰路に海へ身を投げて通盛の後を追った。

安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社内)

安徳天皇は、平清盛の娘「平徳子(建礼門院)」と「高倉天皇(後白河天皇第7皇子)」の間に生まれた子。
壇ノ浦で入水し死去。歴代天皇中で最も短命だった天皇です。

ここ荒田八幡神社が、福原遷都の時の安徳天皇行在所(仮宮)となったと伝わっています。

荒田八幡神社の御由緒には、平頼盛(清盛弟|母は池禅尼)の山荘でもあったと書かれています。

宝地院

上記の荒田八幡神社からほど近い場所にある宝地院。
説明板によると、安徳天皇の菩提を弔う為に創建。もとは平頼盛の山荘跡で、安徳天皇も入御したと書かれています。

大輪田泊

福原京の近くには、日宋貿易の拠点として大輪田泊を大修築。

大輪田泊|天然の良港。平清盛によって日宋貿易の拠点となった場所。
大輪田泊(おおわだのとまり) 神戸福原(福原京)に別邸を構えた平清盛。 奈良時代より「大輪田泊」と呼ばれ天然の良港として親しまれた場所を、大修築工事を行い日宋貿…
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