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佐奈田与一義忠(さなだ よしただ)
1155-1180。
石橋山の戦いで頼朝を守るため、平家方の俣野景久に討たれた。
佐奈田義忠の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
久寿2(1155)年 | 0 | 誕生(父:岡崎義実、母:中村宗平の娘) |
治承4(1180)年 | 頼朝の挙兵に、父義実と参陣 | |
25 | 石橋山の戦いで頼朝を守る為、俣野景久と組み合いになり、討たれ死亡 | |
建久元(1190)年 | - | 頼朝が伊豆山参詣の帰りに、与一の墓に立ち寄る |
建久8(1197)年 | - | 与一を弔うため頼朝が建立した「證菩提寺」が完成 |
吾妻鏡から・・・
頼朝の挙兵
岡崎義実、佐奈田忠義親子は、頼朝に相当頼りにされていた、伊豆北条で立ち上がった時からの当初メンバーです。
治承4(1180)年 8月12日
平家方の山木兼隆を討つ日は17日と決定した。特に、岡崎四郎義実、同与一義忠父子は頼りに思っていて、17日より前に、土肥次郎実平と一緒に来るように、義実に命を出した。
石橋山の戦い
1180年、石橋山で挙兵した源頼朝。
頼朝方は300騎、対する平家方の大庭景親、俣野景久等の3,000騎と戦って敗北。
この時、25才だった佐奈田義忠は、山中の暗闇の中で俣野(五郎)景久と一騎打ちをして戦死(首を討ったのは、平家方の長尾定景)。頼朝はその間に闇に紛れて戦場を離れ、真鶴から上総に逃れた。
治承4(1180)年 8月20日
頼朝に同意した武士の中で、三浦一族や遠方からくる武士で遅れている者もいるが、頼朝は伊豆・相模両国の御家人だけを率いて、伊豆国を出て相模国土肥郷に向けて出発した。その数46名。
その中に、岡崎四郎義実、同与一義忠の名前もある。
同年 8月23日
激しく雨が降っていた日、頼朝が300騎を率いて相模国石橋山に陣を構えた。
それに対し、平家被官の者3000騎(大庭景親、俣野景久、渋谷重国、曽我助信、長尾定景、熊谷直実ら)が同じく石橋山の辺りに陣を構え、背後には伊藤祐親が300騎を率いていた。
源家に従う兵の数は大庭景親らの大軍とは比べ物にならないほど少なかったが、全員、昔からのよしみを重んじて死を恐れなかった。そのため、佐奈田与一義忠とその郎党らが命を落とした。
同年 9月29日
安房国から出発し下総国に着いた頼朝は、佐奈田与一義忠の母のところに特別に使いを出した。義忠の幼い息子らは、亡き義忠の所領(平塚市真田)にいたが、大庭景親ら平家の凶徒が彼らを殺害するのではと疑って、今いる下総国に送り届けるように命じた。
建久元(1190)年正月20日
晩になって頼朝は二所詣でから鎌倉に戻ってきた。
その途中の石橋山で佐奈田与一と郎党らの墳墓を見て涙を流した。
長尾定景について
吾妻鏡に書かれている、石橋山の戦いの内容はあっさりとした内容で、佐奈田与一義忠が戦いで命を落としたことしか分かりません。誰に討たれたのか?それは、その後の吾妻鏡で分かるようになります。
養和元(1181)年 7月5日
長尾新六定景が許された。定景は、去年の一橋山の合戦の時に、佐奈田余一義忠を討ったので、頼朝が実に不届きと思われ、義忠の父岡崎四郎義実がその身柄を預かっていた。
証菩提寺の事について
頼朝が亡くなってからも、佐奈田与一義忠の菩提寺である証菩提寺は、なんとか運営をされていたようです。
健保4(1216)年 8月24日
源実朝の命で、北条義時が証菩提寺で、故佐奈田与一義忠の追善を行った。
建長2(1250)年 4月16日
山内の証菩提寺の住持が同寺の修理を訴えており、清原満定を奉行として、速やかに修理するように命じられた。建久8年に建立した証菩提寺は、雨露のために損傷していたが、修理がまだだった。
佐奈田与一周辺の系図
系図からも分かるように真田義忠は、三浦一族の庶流です。
母は中村宗平の娘で、土肥実平の姉妹にあたり、中村党と三浦一族とのハイブリットです。
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三浦義継
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三浦義明 岡崎義実====土肥実平姉妹(中村宗平娘)
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三浦義澄 佐原義連 佐奈田義忠 土屋義清
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三浦義村 岡崎実忠
佐奈田義忠の子「岡崎実忠」は、和田合戦で親戚でもある「和田義盛」側に与して戦っています。
岡崎氏ゆかりの地
天徳寺与一堂(真田城址)
平塚市真田にある天徳寺境内の左側に与一堂と呼ばれる真田城址があります。
広域地図で見れば、岡崎城と土屋の館との中間に位置し、容易に連絡が取りあえることが分かります。
与一堂の周辺にはいろんな石碑があって、「眞田氏発祥の地」、佐奈田与一の郎党(陶山文三、腰巻文六)の墓もあります。
天徳寺
天徳寺は曹洞宗の寺院。奉納箱に書かれている家紋は三浦一族が使う「三浦三つ引」です。
眞田神社
天徳寺からちょっと離れた場所にある真田神社。
桓武天皇の後胤平国香十代の孫真田与一義忠公所在の神社として崇敬厚く、徳川家康からも神領を寄進されたと伝わります。
天徳院にもお墓がある与一の郎党「陶山文三」の子孫が京都の八坂社を勧請したと。
証菩提寺
横浜市の栄区にある高野山真言宗の証菩提寺
源頼朝によって、自分の身代わりのようになって戦死した佐奈田与一の忠義に報い、其の追善供養のために建立を発願。文治5(1189)年頃に完成した。
寺名の証菩提は、父岡崎義実の法名でもあり、父子ゆかりの寺院となっています。
石橋山古戦場
佐奈田与一が頼朝を守るために命を落とした、頼朝挙兵当初の戦い(石橋山の戦い)