今回は鶴岡八幡宮の近くにある「畠山重忠邸址」の石碑を読んでみました。
てっきり畠山重忠についての事が書かれているのかと思ったら、単なる場所の説明でしたね・・・。
話のメインは源頼朝の三幡姫のお話でした・・・。
目次
畠山重忠邸址

「畠山重忠邸址」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
正治元年五月 頼朝ノ女三幡姫疾ミ之ヲ治センガ為當世ノ醫丹波時長京都ヨリ来レル事アリ
東鏡ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス
是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト
此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ
大正十二年三月 鎌倉町青年團建
1199年(正治元年)源頼朝の娘「三幡姫」が病気になり、これを治療するため当時の医者「丹波時長」が京都より来たことがあった。吾妻鏡には7日に時長が、中原親能の亀ヶ谷の家から畠山重忠の南御門の家に移住した。これは三幡姫の近くで病気を治療するためだったと。この場所がその南御門邸の跡である。
大正12年3月 鎌倉町青年団 建設
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字編)
醫:現在の「医」 → ①癒す ②病気を治す
事前知識(歴史編)
正治元年
1199年。正治(しょうじ)は、1199-1201年。後鳥羽上皇の院政、土御門天皇。
前元号は「建久(けんきゅう)」、次元号は「建仁(けんにん)」
丹波時長
生没年不詳。平安時代から鎌倉時代前期にかけての名声を極めた医師。
掃部頭親能
中原親能(なかはらのちかよし)。鎌倉幕府十三人の合議制の一人。大江広元は弟。
掃部頭(かもんのかみ)は、律令制で宮内庁に属する官職。宮中行事の設営や殿中の掃除を行う。
源頼朝の系譜
今回は頼朝の次女「三幡姫」の話がメインだったので、その他の頼朝の子供について整理してみました。

正室:八重姫
長男:千鶴丸(享年3歳)|叔父(伊藤祐親)に殺される
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八重姫は、後に北条義時の妻となり、北条泰時を産んでいます。
継室:北条政子
長女:大姫(享年20歳)|木曽義高の婚約者
次男:頼家(享年23歳)|二代将軍、伊豆修善寺に流され暗殺
次女:三幡(享年14歳)|本石碑の主人公。頼朝の約5か月後に病没
四男:実朝(享年28歳)|三大将軍、頼家の次男「公暁」に暗殺される
妾:大進局
三男:貞暁(享年46歳)|仁和寺で仏門に入る
他にも妾がいましたが、子供が出来た人物だけ載せています。
源頼朝は子供には恵まれませんでしたね・・・。
亀の前も有名な妾の一人です。
畠山重忠ゆかりの地
畠山重忠はもともと坂東八平氏の一つである秩父市の一族。
現在の埼玉県深谷市畠山を領していました。なので深谷市周辺にゆかりの地が有ります。
畠山重忠公史跡公園
ここには、畠山重忠の産湯の井戸、本人と家臣のお墓、邸宅跡があります。
駐車場はありますが、公園自体はそれほど大きくなく、普段は人も居なくて閑散としています。
(子供連れが遊べるような公園ではありません・・・)




菅谷館
続日本100名城に選定されている菅谷館です。
畠山重忠の居館があったと伝わっています。大人になってからの住まいでしょう。
二俣川古戦場
畠山重忠の乱で、重忠が北条軍と戦って自害した場所(横浜市旭区)です。