源仲章|源実朝の教育係は朝廷と鎌倉幕府の二重スパイだった?

源仲章|源実朝の教育係は朝廷と鎌倉幕府の二重スパイだった?

2022-08-06

源仲章(みなもとのなかあきら)

生誕不詳-1219 宇多源氏、源雅信(左大臣|藤原道長の妻の父)の後裔。
後鳥羽天皇に仕えつつ、鎌倉幕府の御家人としても活躍。

源実朝の教育係として仕えたが、その関係もあり、鶴岡八幡宮にて公暁(実朝の甥)に殺害された。

鶴岡八幡宮大階段(源仲章殺害現場)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、生田斗真さんが演じられます。

源仲章の簡易年表

時期年齢出来事
生誕不詳誕生
後鳥羽上皇に仕える
建仁3(1203)年阿野全成の3男「頼全」を処刑
元久3(1206)年鎌倉に下向し、源実朝の教育係となる
建保4(1216)年政所別当に任じられる
建保7(1219)年源実朝の右大臣拝賀の日、鶴岡八幡宮で公暁により殺害される

吾妻鏡より

源頼家が、頼全の誅殺を命令する

阿野全成の息子「頼全(らいぜん)」は、父が討たれたとき在京していたが、野心を抱いていると噂があったため、京にいる御家人たちに、誅殺を命令したようです。

建仁3(1203)年 6月24日

大江能範(内舎人|うどねり)が使節として上洛。阿野全成の息子「頼全」を誅殺するように、源仲章(相模権守)、佐々木定綱(左衛門尉)に命じるため。

同年 7月25日

源仲章の使者が京都から到着、「去る16日、在京御家人らを動員して頼全を探し出し誅殺しました」と

実朝の御侍読として登場

源仲章は、源実朝の教育係として、元久3年の読書初めに御注孝経(唐の幻宗が撰述した「孝経」の注釈書)を持参し、読書始を行い、褒美を頂いています。

建仁4(1204)年 正月12日

源実朝(将軍家)の御読書始めが行われた。源仲章(相模権守)が御侍読(先生)だった。仲章は優れた文章書きではないため、才知の誉はないが、好きで書籍を集め、様々な方面の学問に優れていた。
御読合の後、砂金50両、御剣一腰を仲章に与えた。

元久3(1206)年 正月12日

今日、源実朝(将軍家)の御読書始(年初めの勉強会)が行われた。束帯の源仲章が御侍読(師匠)として御注孝経(ぎょちゅうこうきょう|中国の書物)を寝殿の南面に持参した。布衣の実朝がお出ましになり、読書始が終わって、仲章は鞍を置いた馬を賜った。

源実朝の鶴岡八幡宮参詣に供奉

建保2年に実朝の八幡宮参詣に供奉しますが、源仲章は弾正大弼(だんじょうたいひつ)。
弾正大弼は、律令で弾正台の次官にあたります。弾正台は監察・治安維持などが主要な業務です。

建保2(1214)年正月22日

源実朝(将軍家)が束帯を着て牛車で鶴岡八幡宮に参詣された。
伊賀朝光が御剣を持ち、佐々木信綱が御調度を懸けた。

北条義時北条時房中原広元北条泰時源仲章(弾正大弼)、源親広、二階堂行光、小山朝政三浦義村結城朝光らが供奉した。

源仲章の最期(実朝右大臣拝賀)

源実朝の右大臣拝賀が終わった時、北条義時の身代わりのような形で、実朝と一緒に公暁に暗殺されてしまいました。

建保7(1219)年 正月27日

源実朝が右大臣の拝賀のため、鶴岡八幡宮に参られた。

行列 殿上人(2列) 文上博士(源)仲章朝臣

実朝が楼門に入られたとき、北条義時は急に心神が乱れ、御剣役を仲章朝臣に譲って退出。
夜になって神拝の儀式が終わって、実朝が退出したところ、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣をとって実朝を殺害した。

※この日には仲章が斬られたことは書かれていません。

同年 2月8日

北条義時(右京兆)が大蔵薬師堂(現覚園寺)に参詣。この寺は霊夢のお告げで義時が創建。
先月27日、戌の刻(20時頃)に実朝に供奉していた時、白い犬が側にいるのを見た後に心神が乱れ、御剣役を源仲章朝臣に譲り退出。

しかし義時が御剣役を務めることを知っていた公暁は、変わった仲章の首を斬った。その時、大蔵薬師堂の戌神は堂の中にいなかったという。

源仲章周辺の系図

宇多天皇
 ⋮
源雅信
 ⋮---倫子=====藤原道長
 ⋮
源光遠=====母不詳
     |
    源仲章  ※後鳥羽上皇の側近
     |

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

源仲章周辺の系図は良く分かっていませんし、有名な子孫に繋がる記録もなさそうです。

宇多天皇の流れを汲むと言うことで、途中で藤原道長の妻となった源倫子が出てきますが、こちらについては、2024年の大河ドラマ「紫式部」で深堀してみたいと思います。

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