平賀義信|源頼朝に信頼された門葉の首座に君臨、清和源氏義光流

平賀義信|源頼朝に信頼された門葉の首座に君臨、清和源氏義光流

2021-08-09

平賀(源)義信(ひらが よしのぶ)

1143-1207以前。父は、新羅三郎義光の四男「源盛義」
信濃国佐久郡平賀郷(現:長野県佐久市)を本拠とし、平賀を名乗りました。

平賀義信の簡易年表

時期年令出来事
康治2(1143)年0誕生
平治元(1159)年17平治の乱。
源義朝(頼朝父)に従い敗走。生き延びる。
寿永2(1183)年41頼朝の義仲討伐軍に協力したと思われる
元暦元(1184)年42頼朝の推挙により武蔵守に任官
文治元(1185)年43勝長寿院での源義朝の遺骨埋葬で遺骨に近侍。
建久5(1194)年52北条泰時の元服の儀に参加
建仁3(1203)年61比企能員の変。
実朝の元服の際に、加冠役を務める。
承元元(1207)年吾妻鏡に「故武蔵守義信入道」と記載されている

吾妻鏡より

北条義時の嫡男の元服式

建久5(1194)年 2月2日

夜、幕府内で13になる北条義時の嫡男(後の泰時)が元服しその儀が行われ、西侍に席を3列設けた。

平賀義信 足利義兼 山名義範 加賀美遠光 大内惟義 北条義時 
藤原重弘 八田知家 葛西清重 加藤景廉 佐々木盛綱 

千葉常胤 畠山重忠 千葉胤正 三浦義澄 梶原景時 土屋宗遠 
和田義盛 安達盛長 三浦義連 大須賀通信 梶原朝景

北条時政 小山朝政 下河辺行平 結城朝光 宇都宮頼綱 岡崎義実 
宇佐美祐茂 榛谷重朝 比企能員 足立遠元 江戸重長 比企朝宗

時間になって、北条時政が泰時を連れて参上。頼朝もお出でになり加冠の儀があった。
(武州)義信千葉常胤が左右に祗候した。

頼朝は三浦義澄を召して「この冠者を婿とするように」とよくよく命じた。

その8年後、建仁2(1202)年 8月23日 義澄の嫡男、三浦義村の娘(矢部禅尼)が泰時に嫁いだ。

清和源氏から見た系図

平賀義信は清和源氏義光流の氏族で、平賀氏の2代目です。

狭い系図の中に、頼朝をはじめ、足利義兼、甲斐源氏、大内惟義、平賀朝雅など、鎌倉幕府初期の有名人がぞくぞくと出てきます。

 |
源頼義(河内源氏
 ├-------------------┐
 義家(1039)              義光(1045)
 ├--------┬          ├-------┬------┬
 義親(?)      義国(1091)     義業(1067)  義清(1075)  盛義(?)
 |        |          (佐竹氏)   (甲斐源氏)    |(平賀氏)
 為義(1096)    足利義康(1127)                 平賀義信(1143)
 |        |                         ├------┐
 義朝(1123)    足利義兼(1154)                 大内惟義    平賀朝雅
 |        |
 頼朝(1147)    義氏(1189)

賀義信は、頼朝に門葉首座として扱われました。
義朝が殺された長田忠致館で、義朝が殺されたことを知った直後に逃亡に成功したとあり、父の義朝を最後まで守り通した4人の武士の一人だったからかもしれません。

河内源氏の長男筋である、源義家の三男「義国」に始まる、足利氏よりも上位でした。

平賀義信周辺の系図

平賀義信の次男が、牧氏事件で北条時政が失脚する要因になった中心人物の「平賀朝雅」です。
血筋としては源氏の流れを汲んでいますから、将軍に擁立してもおかしくない人物。

源盛義
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平賀義信=======比企尼の三女   北条時政====牧の方(継室)
 |     └-----┐            |
大内惟義        平賀朝雅========北条時政の娘

平賀氏ゆかりの地

佐久の平賀には、鎌倉時代に活躍した人々の史跡は、残念ながらあまり残っていません。

平賀龍岡城

源頼朝の門葉に列した平賀(武藏守)義信が築いた城と言われています。

平賀神社

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